前回は「暗転した会津藩の未来〜薩摩の大挑発と大策謀家西郷隆盛・薩長の挑発に対して「大人の対応」した徳川慶喜〜」の話でした。

維新側の猛将・大山巌と山川咲子:「反乱者」だった維新の立役者たち

鳥羽・伏見の戦いで、「まさかの大敗北」を喫した徳川幕府。
そして、1860年に会津松平藩の名家・山川家に生まれて、この頃7〜8歳だった山川咲子(当時の名)。
「松平」は徳川家康の昔の苗字であり、御三家より少し格下の「別格の藩」でした。

世の中では、「女子は学問はしない」という
感じだけど・・・



私は、結構
勉強するのは好きかな・・・
小学校などの学制がなかった当時は、藩校や寺子屋で子どもたちは学びました。
おそらく、小さな山川咲子は、勉強との良い相性を感じていたでしょう。
もし、徳川幕府の世が続けば、「名門・松平家の名家・山川家の子女」として安泰な人生だったでしょう。


山が多く、「山に囲まれた世界」のような風光明媚な会津でスクスク育った咲子。



どうやら、大樹様(徳川将軍)が
新たな勢力に合戦で負けたらしい・・・



えっ!
大樹様が?



大樹様と近い
我が殿(容保)は、どうなるんだろう・・・
「絶対に勝つはず」であり、「最強の存在」であった徳川家・徳川将軍。
その徳川家・徳川将軍が「敗北した」という仰天の情報が届きました。



我が藩主・容保様も
会津に戻って、謹慎らしい・・・



えっ!
松平容保様が?
名家だった山川家の人間とはいえ、「雲の上の存在」だった将軍・徳川慶喜でした。
将軍・慶喜とは別に「真上に君臨した王」のような存在だったのが、藩主であった松平容保でした。



えっ・・・
会津はどうなるの・・・
今の今まで、



私は会津藩の
人間です!
「会津藩の藩士・人間」と言えば、「一目置かれる存在」だった会津。
いわば「天下の会津」であったのが、



・・・・・
ガラガラと世が変わる音が響き渡り始め、一気に暗転してきました。


そして、鳥羽・伏見の戦いで大活躍した若き猛将に大山弥助(巌)という人物がいました。



我が徳川や会津を
倒したのが、薩長・・・
女子といえども、当時は武家社会だったので、「敵か味方か」は明確な概念がありました。



どうやら、薩長が
反乱を起こしたらしい・・・



薩長が反乱ですか・・・
まさか・・・


現代、明治維新の立役者と呼ばれる人物たち。
徳川家・松平家・譜代大名から見れば、「単なる反乱軍のボス」でしかありませんでした。
徳川家が弱体化したとは言え、曲がりなりにも「徳川の世」がそれなりに安定していた時代でした。
後に「幕末」と呼ばれる時代に、京や江戸で治安が猛烈に悪化しましたが、



我らの手下に、江戸で
騒動を起こさせるごわす・・・
「治安悪化の元凶」こそが、薩摩や長州だったのが現実でした。
つまり、現代社会の感覚で考えると、西郷たちは「犯罪者集団の頭領」のような存在だったと言って良いでしょう。



あの薩摩と長州が・・・
許せない・・・
そして、「許せない」対象だった薩摩の大山弥助(巌)と咲子は、後に「特別な関係」となります。
当時の咲子にとっては、正に「夢の夢にも思わない」ことでした。
錦の御旗でノックダウンされた慶喜:「まだまだ戦えた」強力な徳川





我が徳川が
敗北した・・・
鳥羽・伏見の戦いでの敗北を目の当たりにした徳川慶喜。



しかも、この私が
「朝敵」だと・・・
「勤王意識のメッカ」だった水戸藩出身の徳川慶喜にとって、「朝敵」指定は「死の宣告」と同等でした。


つい先日までは、



薩長まとめて
叩き潰してくれるわ!



私自ら陣頭指揮を
取る!



この将軍慶喜が
采配を握って、「長州大討込」だ!
意気揚々として、長州征討を「長州大討込」と称し「燃えていた」慶喜でしたが、



もう、
諦めよう・・・



皆で謹慎して、
薩長に許してもらおう・・・
一気に弱気になって、「恭順する」姿勢を示しました。



慶喜様!
まだ我らの味方は大勢います!



我ら譜代大名や
旗本だけでも、薩長と戦えます!
この松平容保の言動は「身内の贔屓目」ではなく「現実」でした。
確かに、鳥羽・伏見で敗北した徳川でしたが、残存する力は強力で「まだまだ戦えた」のでした。



当時、薩長はイギリス(大英帝国)などから
最新鋭の武器などを輸入しました。



対して、徳川幕府の武器などが
薩長より大幅に遅れていました・・・



そのため、徳川幕府軍は
敗北してしまいました。
日本史の勉強では、「徳川軍の装備が旧式だったため敗北」と習いますが、それは一面的な見方です。
確かに、その面もありますが、実はフランスが幕府側についていました。
幕府側も旧態依然としていたのではなく、フランスから最新鋭の武器を導入していました。
そのため、「まだ戦える」というのは「単なる武士道的観念」ではなく、事実だったのでした。



いや、容保よ・・・
もう良いのだ・・・



まだ大した合戦を
していない、この時点で・・・



恭順すれば、
降伏を認められる可能性が高い・・・



これ以上戦った結果、
敗北したら・・・



我らの生命は
ないだろう・・・
この徳川慶喜の主張も理に適っていました。



なんとか薩長に許してもらい、
新たな世を生きようぞ・・・



はっ・・・
将軍慶喜にここまで言われては、「一門」といえども「家臣」の容保は従うしかありませんでした。



私たちや
会津はどうなってしまうの・・・
幼き少女時代に、時代の大転換だけでなく「自分たちの運命が暗くなる」のを感じた山川咲子。
そして、会津はさらに暗さを増してゆき、暗黒を超える時代を迎えることになります。