暗転した会津藩の未来〜薩摩の大挑発と大策謀家西郷隆盛・薩長の挑発に対して「大人の対応」した徳川慶喜〜|山川捨松14・人物像・時代

前回は「徳川と薩摩〜魔術的薩摩・最強武士軍団会津と新撰組・爆発した「危険者集団」長州・徳川の優れた人物たち・榎本武揚と小栗忠順と川路聖謨と勝海舟〜」の話でした。

目次

薩長の挑発に対して「大人の対応」した徳川慶喜

New Educational Voyage
戊辰戦争:左上から時計回りに、西郷隆盛、徳川慶喜、松平容保、木戸孝允(国立国会図書館)

坂本龍馬の仲介もあり、1866年に薩長が同盟を締結しました。(諸説あり)

後世、1866年といえば「幕末」であり、「江戸時代の末期」でした。

西郷隆盛

徳川幕府は
ぶっ潰す他なか!

大久保利通

我が薩摩が中心となって、
新たな時代を創り出すのだ!

諸藩の中で「圧倒的な潜在パワー」を有していた薩摩が、明確に「反幕府」となりました。

徳川慶喜

おのれ・・・
薩長めが・・・

徳川慶喜

ならば、
薩長まとめて潰してくれるわ!

「日本政府」であった徳川幕府にとって、薩長が組んだところで「政府vs自治体」の戦いでした。

現代ならば「模範的優等生」となったであろう、頭脳明晰な徳川慶喜は、

徳川慶喜

だが、我が幕府の
影響力が落ちているのは事実だ・・・

「徳川の影響力の大幅ダウン」を、しっかり理解していました。

土佐脱藩浪人 坂本龍馬(Wikipedia)

ここで、再び坂本龍馬が登場しました。(諸説あり)

坂本龍馬

形式的には、
朝廷から徳川幕府の大政委任されているぜよ・・・

坂本龍馬

だから、
徳川から、朝廷に大政を返せば・・・

坂本龍馬

薩長は、
徳川を攻撃する理由がなくなるぜよ・・・

脱藩し「無国籍の自由人」だった坂本龍馬は、「抜本的解決」を考案したと言われています。

この頃、脱藩したものの「土佐藩と仲良く」し始めていた坂本龍馬。

土佐藩参政 後藤象二郎(Wikipedia)

当時、土佐藩参政(首相)であった後藤象二郎は、坂本龍馬たちと間接的につながっていました。

後藤象二郎

なるほど・・・
大樹様(慶喜)が大政奉還すれば・・・

後藤象二郎

幕府は、自ら「トップの座を降りる」
ことになるが・・・

後藤象二郎

薩長は、徳川を討つ大義名分が
なくなるな・・・

何事も名目や大義名分は大事であり、革命・政府転覆においては、超重要でした。

坂本龍馬→後藤象二郎→山内容堂→徳川慶喜のラインで、「奇策・大政奉還案」が伝わり、

徳川慶喜

大政奉還だと・・・
ふむぅ〜・・・

理解力が高く、即断即決でもあった慶喜は、思い切って決断しました。

徳川慶喜

よしっ!
大政奉還しよう!

大政奉還して、徳川幕府も「諸大名と同じ立場」となることを選びました。

大政奉還したとはいえ、徳川幕府と旗本の巨大パワーが残存することになるので、

徳川慶喜

新たな世で、
徳川がイニシアティブを・・・

「徳川ファースト」であり続けることを、目論んでいたのが慶喜でした。

ある意味では、「大人の対応をした」とも言える慶喜の超大決断でした。

暗転した会津藩の未来:薩摩の大挑発と大策謀家・西郷隆盛

新教育紀行
仙巌園(新教育紀行)
西郷隆盛

徳川が大政奉還した、
だと・・・

大久保利通

おのれ・・・
そう来たか・・・

薩長、特に薩摩は「振り上げた拳を振り落とす先」が、なくなってしまいました。

圧倒的パワーを持っていた薩摩といえども、「一諸侯」であり、

西郷隆盛

反徳川の旗幟を明確にした今、
もはや後戻りはできん・・・

大久保利通

吉之助(西郷)さぁ・・・
どう手を打つ?

西郷隆盛

・・・・・

ここで、西郷は「革命家」であり「大陰謀家」の顔を見せました。

西郷隆盛

よかよか・・・
徳川を、思い切り挑発してやるごわす・・・

この時、西郷の瞳がキラリとドス黒く光りました。

後世「聖人」「偉人」「威人」の典型例と言われる西郷は、「大策謀家」の顔を持っていました。

薩摩藩士M

西郷先生の命令で、
江戸を撹乱するのだ!

薩摩藩士M

江戸で強盗など、
犯罪を引き起こして、徳川を挑発するのだ!

西郷の意を受けた、薩摩藩士たちは、江戸で強盗などの犯罪を大規模に引き起こしました。

徳川幕府

おいっ、お前たち!
絶対に許さんぞ!

徳川幕府

引っ捕らえて、
牢屋に叩き込んでくれる!

そして、犯罪を犯した後に、これ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込んでゆきました。

徳川幕府

お、おのれ・・・
薩摩が後ろにいるのか・・・

江戸という「徳川幕府の首都」において、大犯罪を繰り返されたら、黙っているわけに行きませんでした。

徳川幕府

こうなったら、
薩摩藩邸を焼き尽くしてくれるわ!

こうして、「挑発に乗ってしまった」徳川幕府は、薩摩と全面戦争に入りました。

「挑発に乗ってしまった」というよりも、「政府として、取らざるを得ない手段」でした。

この時、将軍・徳川慶喜は江戸ではなく、京や大坂(大阪)に滞在しており、

徳川慶喜

な、なに・・・
薩摩藩邸を攻撃した、だと・・・

徳川幕府

江戸で犯罪を繰り返されて、
黙っているわけには、ゆきません!

徳川慶喜

・・・・・

「犯罪者を取り締まる」ことは、幕府・藩、あるいは国家・自治体の使命です。

この点で、江戸で「薩摩藩邸を攻撃した」徳川幕府の政治家・官僚の判断は「正しい」ものでした。

西郷隆盛

あとは、戦争で
正面衝突ごわすな・・・

大久保利通

吉之助(西郷)さぁ・・・
幕府相手に勝てるごわすか?

西郷隆盛

我が薩長兵は、
5,000ほど・・・

大久保利通

幕府は少なくとも、
15,000の軍勢・・・

大久保利通

だが、我らには
錦の御旗がある・・・

New Educational Voyage
錦の御旗(明治天皇と維新の群像 明治神宮)

錦の御旗に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

西郷隆盛

もう、やるしか
なか!

西郷隆盛

負けるかもしれんが・・・
死力を尽くしてみせる!

徳川慶喜

お前たち、
日本政府である徳川幕府を舐めるなよ!

New Educational Voyage
鳥羽・伏見の戦い(Wikipedia)

そして、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、数の上では圧倒的で、装備もまあまあ良かった幕軍。

少数ながら、「西郷がトップ」であることが明確で、装備は最高で、最強の薩摩藩士中心の薩長。

New Educational Voyage
鳥羽・伏見の戦い(Wikipedia)

激しい銃撃戦となり、薩長vs徳川幕府が鋭く激突しました。

新教育紀行
鳥羽・伏見の戦い(Wikipedia)
徳川幕府軍P

に、錦の御旗が
薩長軍に・・・

徳川幕府軍P

私たちは
朝廷の敵である賊軍なのか・・・

徳川幕府軍P

賊となっては、
我らは・・・

「錦の御旗」の絶大パワーによって、徳川幕府は総崩れとなりました。

会津藩主 松平容保(Wikipedia)
松平容保

我が徳川が
薩長に敗北した、だと・・・

松平容保

・・・・・

「徳川のために」と、一生懸命徳川幕府に尽くし続けてきた会津藩。

一気に運命が暗転し、目の前が真っ暗になりました。

山川捨松

京や上方(かみがた)では、
戦が起こっているらしいけど・・・

山川捨松

会津藩は、
大丈夫かな・・・

1860年生まれの山川捨松は、7歳の頃に、時代の大激動に巻き込まれることになりました。

そして、山川家も会津藩と共に「地獄へ直行」する道を歩むことになります。

New Educational Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次