前回は「徳川・朝廷連合の公武合体〜外国人を嫌っていた孝明天皇・長州征討・朝敵である長州毛利討伐戦〜」の話でした。
高杉晋作不在の長州藩vs勇躍した徳川慶喜:第一次長州征討
諸大名を
大動員だ!
「衰えた」とは言え、日本政府である徳川幕府。
我が徳川が、
日本の支配者なのだ!
まだまだ健在です。
諸大名よ!
私に従え!
公武合体を推進していた徳川幕府と朝廷。
手を取り合って、時代を切り拓こうとします。
御所を攻撃した長州は
朝敵だ!
長州を
すぐに討て!
ははっ!
御所を攻め込まれて、怒り心頭の孝明天皇。
それは当然のことでした。
日本において、御所は聖地のような「別格の空間」でした。
御所に
攻め込むとは・・・
そんな不埒な勢力は、
この世から消してもらいたい!
孝明天皇は、徳川幕府に長州征討の勅命を出します。
事実上、朝敵となった長州。
徳川幕府は35藩に動員令を出し、15万人を長州へ向かわせます。
奇兵隊を組織した天才的な若者・高杉晋作がいた長州藩。
久坂は禁門の変で
自刃してしまったが・・・
吉田松陰先生の
志を継ぐのだ!
ところが、高杉たちは実権は持っていなかったため、この時は幕府に対抗する術がなかった長州。
防長二州は、大軍の幕軍に囲まれてしまいました。
三方を海に囲まれた長州は、日本中から攻められる立場になってしまいました。
長州を
叩け!
1864年の長州征討では、あっさりと長州藩首脳が諦めて、
申し訳
ありません・・・
長州は事実上降伏して、ジ・エンドとなりました。
そして、禁門の変に関わった「三家老らの切腹」などの条件を呑みます。
憎き薩賊会奸:西郷隆盛の深謀
禁門の変で手を取り合って、協力した薩摩と会津。
おいどんは
全てが薩摩藩から始まる!
徳川慶喜同様、「薩摩ファースト」の考えだった西郷隆盛。
とりあえず、徳川幕府・会津と仲良くしてゆきます。
禁門の変で敗れ、第一次長州征討でコテンパンにされた長州は、
薩賊会奸は、
絶対に許さん!
を合言葉に、捲土重来を期します。
「薩摩が賊で、会津が奸物である」意味で、「薩賊会奸」です。
ところが、
どうも、徳川幕府のやり方は、
良くない・・・
そもそも、世襲で将軍が
トップになるのは、時代遅れでは・・・
薩摩中心の政治体制の方が、
良いのでは・・・
と考えた、西郷が中心の薩摩。
薩摩は、少しずつ徳川幕府と距離を取りました。
仇敵・薩摩と長州を結んだ坂本龍馬の登場
薩摩はじめ、諸侯がさまざまな思惑で動く中、長州は弱体化してゆきます。
ここで、
長州に
止めをさせ!
と徳川幕府は躍起になります。
今だ!
しかない!
この中、歴史に飛び込んできた若者がいました。
元土佐藩士にして、今は脱藩の浪人だった坂本龍馬です。
当時、軍艦奉行並といういわば「海軍大臣代理」の役にあった勝海舟とも親しい坂本龍馬。
薩摩と長州が、
手を組めばいいぜよ!
さっ、
薩摩!
この頃の長州藩士にとって、薩摩は悪魔のような存在です。
薩摩と
手を組むだと!
あいつらは、
憎き薩賊会奸!
薩摩が、
我が長州藩に何をしたか・・・
あなたは
知っているだろう!
その上で、
「薩摩と手を組む」など言えるのか!
薩摩が大嫌いで、中でも「西郷」という名前を聞くだけでも嫌な桂(木戸)。
薩摩と手を組むくらいなら、
我が長州藩士は独力で戦う!
気持ちは
分かるぜよ・・・
でも、このままでは、
長州は本当に破滅ぜよ・・・
・・・・・
確かに・・・
確かにそうなのだが・・・
理屈では状況を理解できるものの、感情が邪魔をする桂(木戸)でした。
薩摩め・・・
西郷め・・・
慶喜さんも、あまり波風立てない方が
良いのではないかしら・・・
京の治安を守り、
朝廷をお守りするのだ!
山川捨松が所属していた会津藩という国家。
その国家の元首であった会津藩主・松平容保は京都守護職となり、身を挺して京を守っていました。
我ら、会津藩士の
おかげで、京の治安は良くなった!
一時は、「暗殺だらけ」であった百鬼夜行の世界のようであった京都。
松平容保たちの尽力によって、少しずつ治安が回復してゆきました。
この調子で、
なんとか幕府の権威を取り戻す!
こう考えていた、松平容保たち徳川幕府の首脳陣たち。
ところが、時代は「そうはさせてくれなかった」のでした。
次回は上記リンクです。