徳川・朝廷連合の公武合体〜外国人を嫌っていた孝明天皇・長州征討・朝敵である長州毛利討伐戦〜|山川捨松9・人物像・時代

前回は「幕末の巨大なうねりの始まり〜長州藩追い落としと七卿落ち・禁門の変・久坂玄瑞と桂小五郎の衝突・京を防衛した会津藩・薩摩と会津の共同作戦〜」の話でした。

山川(大山)捨松(Wikipedia)
目次

外国人を嫌っていた孝明天皇

孝明天皇(Wikipedia)

時の孝明天皇は、非常に外国人嫌いで有名でした。

孝明天皇

外国人は
夷狄だ・・・

孝明天皇

我が神州(日本)へは、
外国人を入れるな!

外国人に対する「極めて強い先入観・思い込み」があり、嫌っていたのです。

徳川幕府初代将軍:徳川家康(Wikipedia)

徳川家康が徳川幕府を開いた時には、

徳川家康

我が徳川幕府が
これからは中心となるのだ!

「幕府が中心で、朝廷はお飾り」と考えていた徳川家康。

長い太平が続いた江戸時代ですが、家康がやっと豊臣との間にケジメをつけた1615年。

武家諸法度と共に禁中並公家諸法度を制定します。

武家諸法度は、

徳川家康

諸大名は徳川に
従え!

「諸大名統制の法律」でした。

徳川家康

まだまだ、
徳川に刃向かってくる勢力がいるかもしれぬ・・・

徳川家康

特に島津と
毛利・・・

盤石な体勢を築いた家康でしたが、まだ不安があったのでした。

「武家諸法度」を制定・文面化しても、結局は戦いになれば「強い方が勝つ」ことになります。

とにかく、豊臣家を討滅した直後の徳川幕府の勢威・威光は絶大でした。

徳川家康

島津と
毛利には注意しなければ・・・

この家康の心配・懸念は、幕末に現実のものとなりました。

武家諸法度と同時に制定した「禁中並公家諸法度」は、

徳川家康

朝廷の皆さんは、
政治はしなくていいです!

徳川家康

政治は徳川幕府に任せ、
朝廷は黙っていてください!

「天皇も朝廷も何もしないで下さい」ということでした。

徳川家康

これで、天皇・朝廷には
政治に立ち入らせない!

徳川家康

政治は
徳川幕府が行うのだ!

ところが、徳川幕府の威勢が大いに衰えてしまいました。

そして、諸外国との関係で日本の政治は揺れに揺れます。

孝明天皇

外国人は嫌いだが、
幕府とは仲良くしたい・・・

孝明天皇

それが我が国・日本のために
ベストな道だろう・・・

孝明天皇・朝廷は皇女和宮を将軍家茂に嫁がせて、公武合体を図りました。

徳川・朝廷連合の公武合体

第十四代将軍 徳川家茂(Wikipedia)

実権はないものの、天皇崇拝の影響が強い日本。

徳川将軍にとって、天皇は「目上の存在」です。

孝明天皇

朝廷と幕府仲良く、
今後の日本をつくろう・・・

徳川家茂

ははーっ!

後の第十五代将軍 一橋慶喜(Wikipedia)

第十四代将軍となった家茂は、一橋慶喜と将軍職を争いました。

将軍職の争いに敗れたものの、

一橋慶喜

次の将軍は
私!

「自分は次の将軍」と考えていた慶喜は、幕府の復権に大いに尽力します。

朝廷と徳川幕府が組んで、新しい日本をつくってゆく動きが強まりました。

公武合体とは「朝廷=」と「徳川家=」が合体として一体となることで、新体制を作る目論みでした。

京都守護職・会津藩主 松平容保(Wikipedia)
松平容保

京の治安を守り、
朝廷をお守りするのだ!

この幕府と朝廷の間を取り持つ役としても、松平容保はうってつけでした。

誠実な人柄の松平容保は、孝明天皇からも信頼されます。

孝明天皇

松平容保よ・・・
信頼しておるぞ!

松平容保

はっ!
有難き幸せ!

松平容保

引き続き、
京都の安定化に努めます!

長州征討:朝敵である長州・毛利討伐戦

禁門の変(Wikipedia)

禁門の変以降、京の治安は会津藩・新撰組などの活躍で、少しずつ安定化しつつありました。

松平容保

少しずつ
治安が良くなってきたぞ・・・

新撰組局長 近藤勇(Wikipedia)

我が新撰組が
不穏分子はひっ捕えてみせる!

京周辺で不穏分子たち(徳川幕府から見て)が蠢動していましたが、

近藤勇

御用改めだ!
ちょっと入らせてもらうぞ!

警察以上の権限を付与された新撰組は、「御用改め」として、バンバン検挙に踏み切りました。

これで、一時は「暗殺の嵐」が吹き荒れていた京都周辺は、

松平容保

不穏分子を消せば、
安らかな世になる・・・

松平容保率いる会津藩士たちの懸命な尽力によって、状況は改善してきました。

薩英戦争 歴史道vol.6(朝日新聞出版)

薩摩は大英帝国と薩英戦争を戦い、大損害を受けながらも善戦しました。

その後、現実的な薩摩は大英帝国と協調姿勢を取ります。

その中、

一橋慶喜

御所へ攻め込んだ長州は、
絶対許せん!

「徳川幕府ファースト」の一橋(徳川)慶喜。

一橋慶喜

この際、長州を潰して、
反幕府の芽を潰せ!

徳川幕府の威信をかけて、長州へ攻め込みました。

一橋慶喜

京は、お前たちに
任せたぞ!

松平容保

京は
お任せを!

松平容保

落ち着き始めて
きていたのに・・・

せっかく落ち着きつつあった事態を、徳川慶喜がひっくり返してしまいました。

松平容保

ただ、確かに長州は
潰しておいた方が良いだろう・・・

そして、更なる大騒動に至ります。

激動の時代はすでに始まっており、激動から「大きな時代のうねり」へと変化しました。

山川捨松

平穏な時代が
良いけど・・・

山川捨松(咲子)は四歳になり、少しずつ言葉を話してくる頃でした。

次回は上記リンクです。

新教育紀行

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