前回は「幕末の巨大なうねりの始まり〜長州藩追い落としと七卿落ち・禁門の変・久坂玄瑞と桂小五郎の衝突・京を防衛した会津藩・薩摩と会津の共同作戦〜」の話でした。
外国人を嫌っていた孝明天皇
時の孝明天皇は、非常に外国人嫌いで有名でした。
外国人は
夷狄だ・・・
我が神州(日本)へは、
外国人を入れるな!
外国人に対する極めて強い先入観があり、嫌っていたのです。
徳川家康が徳川幕府を開いた時には、
我が徳川幕府が
これからは中心となるのだ!
と考えていた徳川家康。
長い太平が続いた江戸時代ですが、家康がやっと豊臣との間にケジメをつけた1615年。
武家諸法度と共に禁中並公家諸法度を制定します。
武家諸法度は、
諸大名は徳川に
従え!
ということでした。
まだまだ、
徳川に刃向かってくる勢力がいるかもしれぬ・・・
特に島津と
毛利・・・
盤石な体勢を築いた家康でしたが、まだ不安があったのでした。
このように「武家諸法度」にして文面化しても、結局は戦いになれば「強い方が勝つ」ことになります。
とにかく、豊臣家を討滅した直後の徳川幕府の勢威・威光は絶大でした。
島津と
毛利には注意しなければ・・・
という家康の心配は、幕末に現実のものとなりました。
武家諸法度と同時に制定した「禁中並公家諸法度」は、
朝廷の皆さんは、
政治はしなくていいです!
政治は徳川幕府に任せ、
朝廷は黙っていてください!
ということでした。
これで、天皇・朝廷には
政治に立ち入らせない!
政治は
徳川幕府が行うのだ!
ところが、徳川幕府の威勢が大いに衰えてしまいました。
そして、諸外国との関係で日本の政治は揺れに揺れます。
外国人は嫌いだが、
幕府とは仲良くしたい・・・
それが我が国・日本のために
ベストな道だろう・・・
孝明天皇は皇女和宮を将軍家茂に嫁がせて、公武合体を図ります。
徳川・朝廷連合の公武合体
実権はないものの、天皇崇拝の影響が強い日本。
徳川将軍にとって、天皇は「目上の存在」です。
朝廷と幕府仲良く、
今後の日本をつくろう。
ははーっ!
第十四代将軍となった家茂は、一橋慶喜と将軍職を争いました。
将軍職の争いに敗れたものの、
次の将軍は
私!
と考える慶喜は、幕府の復権に大いに尽力します。
朝廷と徳川幕府が組んで、新しい日本をつくってゆく動きが強まりました。
公武合体とは「朝廷=公」と「徳川家=武」が合体として一体となることで、新体制を作る目論みでした。
京の治安を守り、
朝廷をお守りするのだ!
この幕府と朝廷の間を取り持つ役としても、松平容保はうってつけでした。
誠実な人柄の松平容保は、孝明天皇からも信頼されます。
松平容保よ。
信頼しておるぞ!
はっ!
有難き幸せ!
引き続き、
京都の安定化に努めます!
長州征討:朝敵である長州・毛利討伐戦
禁門の変以降、京の治安は会津藩・新撰組などの活躍で、少しずつ安定化しつつありました。
少しずつ
治安が良くなってきたぞ・・・
我が新撰組が
不穏分子はひっ捕えてみせる!
京周辺で不穏分子たち(徳川幕府から見て)が蠢動していましたが、
御用改めだ!
ちょっと入らせてもらうぞ!
警察以上の権限を付与された新撰組は、「御用改め」として、バンバン検挙に踏み切りました。
これで、一時は「暗殺の嵐」が吹き荒れていた京都周辺は、
不穏分子を消せば、
安らかな世になる・・・
松平容保率いる会津藩士たちの懸命な尽力によって、状況は改善してきました。
薩摩は大英帝国と薩英戦争を戦い、大損害を受けながらも善戦します。
その後、現実的な薩摩は大英帝国と協調姿勢を取ります。
その中、
御所へ攻め込んだ長州は、
絶対許せん!
「徳川幕府ファースト」の徳川慶喜。
この際、長州を潰して、
反幕府の芽を潰せ!
徳川幕府の威信をかけて、長州へ攻め込みます。
京はお前に
任せたぞ!
京は
お任せを!
落ち着き始めて
きていたのに・・・
せっかく落ち着きつつあった事態を、徳川幕府が、というより慶喜がひっくり返してしまいます。
ただ、確かに長州は
潰しておいた方が良いだろう・・・
そして、更なる大騒動に至ります。
激動の時代はすでに始まっており、激動から「大きな時代のうねり」へと変化しました。
平穏な時代が
良いけど・・・
山川捨松(咲子)は四歳になり、少しずつ言葉を話してくる頃でした。
次回は上記リンクです。