会津藩主・松平容保と「地獄への片道切符」〜安政の大獄・逆上した井伊直弼・平和から血塗られた歴史への転換期〜|山川捨松6・人物像・時代

前回は「徳川幕府の立ち位置と権限〜日米修好通商条約締結・孝明天皇の反対・予想外に強硬な姿勢の天皇・幕府と天皇・幕府への大政委任〜」の話でした。

山川(大山)捨松(Wikipedia)
目次

安政の大獄:逆上した井伊直弼

大老 井伊直弼(Wikipedia)

長らく概ね平和だった江戸時代の日本。

島原の乱が勃発した1637年以降、230年ほどの間は大きな戦争・合戦がありませんでした。

欧米列強の中国に対する仕打ちなどで、日本中が混乱します。

その中、条約調印を強行した井伊大老。

やむを
得なかったのだ・・・

私は、私なりに苦渋の決断を
下したのだ・・・

ところが、

井伊は、
けしからん!

井伊は、
横暴な奴だ!

という勢力が出てきます。

対する井伊大老。

何度も
繰り返すが・・・

徳川幕府は、
日本政府だ!

そして、日本政府の最高意思決定者は
私なのだ!

新教育紀行
第十四代将軍 徳川家茂(Wikipedia)

当時の将軍は第十四代将軍 徳川家茂ですが、そもそも「井伊が決定した人物」でした。

この点もあり、将軍家茂の権限は限られており、非常職である大老の井伊直弼が全権者だったのでした。

政府に歯向かうとは、
いい根性してるな!

怒りに震えた井伊直弼。

ついには、

もう、
いい加減にしろ!

逆上してしまった井伊直弼は、強硬手段に出ました。

我が国の政府に逆らう奴らは
全員テロリストだ!

尊王攘夷派など、
消えてしまえ!

ついに、安政の大獄という大弾圧に踏み切ります。

そして、水戸藩主・徳川斉昭らを謹慎処分にします。

長州藩士 吉田松陰(Wikipedia)

さらに、吉田松陰・橋本左内たちが斬首という、前代未聞の大事件に発展します。

平和から血塗られた歴史への転換期

桜田門外の変(Wikipedia)

おのれ・・・
井伊め・・・

井伊は、
絶対に許さん!

力には力を!
井伊に思い知らされてやれ!

ここで、と井伊大老に反撃を企む武士が現れます。

そして、山川捨松が誕生した1860年。

なんと、大老・井伊直弼が襲撃・殺害されるという「桜田門外の変」が勃発します。

な、なに?!
我が行列が襲撃だと・・・

狙われているのは、
分かっていたが・・・

本気で、総理大臣たる
私を襲うとは・・・

総理大臣格である井伊大老が「江戸城の目の前」で暗殺される事態になりました。

そして、この前後から「尊皇攘夷派」による殺人事件が、京都を中心に多数発生します。

平和な時代から血塗られた歴史への転換期となる時期となり、後世から見ると「幕末」となりました。

会津藩主・松平容保と「地獄への片道切符」

将軍後見職 徳川 慶喜(Wikipedia)

のちに新政府軍が徳川幕府を倒したため、善玉として扱われることが多い「尊皇攘夷派」。

しかし、内実は非常に陰惨なことを、おこなっている人物が多かったのです。

「尊皇攘夷」の旗を下に、殺人を続ける一派が多数出現します。

天誅!

天誅だ!

敵と見做せば、「天誅」の合言葉で殺害します。

そして、その遺体を見せびらかすという、現代では信じがたいことを実行していました。

のちに第十五代将軍となる、当時「将軍後見職」という職にあった一橋慶喜。

京都で、
殺人が多数発生しているだと・・・

そんなこと、
政府として座視は出来ん!

どこか、強力な藩に、
京都を守らせるのだ!

そして、その「尊王攘夷派」とかいう輩を
叩きのめすのだ!

どこか、
どこかないか・・・

会津藩主 松平容保(Wikipedia)

いた!
会津だ!

会津藩主 松平容保よ!
京都を守ってほしい!

頼って頂く、
お気持ちは嬉しいですが・・・

我らでは、
不可能です・・・

当時、「西の薩摩、東の会津」と言われ、いわば「二強」に挙げられていた会津藩。

しかし、京都で跳梁跋扈する殺人犯を取り締まるのは、大変なことです。

いえ、
無理です・・・

どうか、どうか
ご勘弁を・・・

ところが、「思い込みが極めて強い男」であった一橋慶喜は絶対に諦めません。

お前しか、
いないのだ!

「あなたしかいない!」と言われると、「真面目な人間は弱い」のが現実です。

はあ・・・
分かりました・・・・

そして、渋々ながら、京都守護職に就任した会津藩主 松平容保。

山川捨松が、二歳の時でした。

容保が「絶対に無理」と思っていた役職。

それは松平容保のみならず、会津全体にとって「地獄への片道切符」となりました。

・・・・・

次回は上記リンクです。

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