前回は「「士は士を知る」人を見る目を磨いた西郷〜橋本左内との邂逅・個性的な多士済々の人物を輩出した適塾・緒方洪庵の卓越した功績・藩のカラーの人物へ与える強い影響・薩長土肥の人物像〜」の話でした。
島津斉彬の強い日本再建への思い:「強き国家元首」擁立へ
長年、父・島津斉興に嫌われ、お由羅騒動という甚大なお家騒動まで起きた島津藩。
私は島津家の
長男であり、正統な後継者なのだが・・・
どうも父に嫌われているらしく、
藩主を継ぐ前にもう40になってしまった・・・
長男・斉彬は嫌いで、
お由羅の息子・久光が好きだ!
斉彬なんかに
藩主の座を継がせるか!
遂には、斉彬の親しい友人でもあった老中・阿部正弘が介入しました。
斉興よ、
元気にしておるか・・・
ははっ!
阿部様にもお変わりなく・・・
ところで、斉興よ。
これ(茶器)を与えよう・・・
老中からの「茶器の下賜」は「引退せよ」の暗号でした。
!!!!!
むむ・・・
やむを得ん・・・
やっと、
薩摩藩主になったぞ!
薩摩藩主になった時、斉彬はすでに40を超えていました。
念願の島津藩主になり、島津藩内部で技術革新を進める島津斉彬。
「念願の」は決して「自分のため」ではなく、「日本のため」でした。
我が薩摩藩が、日本を
立て直すのだ!
大変な意気込みで、島津藩を当時最先端だった欧州と張り合うレベルに持ってゆこうと考えます。
西洋の最先端化学を積極的に受け入れて、薩摩の技術新興は大いに盛り上がりました。
だが、肝心の国家元首たる
将軍は、やはり大事だ。
我が島津藩だけでは、
限度がある・・・
当時、心身虚弱と言われた将軍 家定。
将軍には、もっと立派な
人間になってもらわねば。
確かに
そうごわすな。
家定様では
ダメだ・・・
次期将軍は、
誰がよかごわすか。
それは、
一橋慶喜様だろう。
際立った力量を持った一橋慶喜の存在
水戸藩主徳川斉昭の第七子として生誕した徳川慶喜。
七番目の子どもともなると、上にたくさんのお兄さんがいます。
そこで、
慶喜は、水戸の徳川にいるより
他の家に行った方が良いだろう・・・
他家に出されることになりました。
行き先は、御三卿の一つの一橋家でした。
御三家:紀伊・尾張・水戸
御三卿:田安・一橋・清水
慶喜よ。
一橋家へゆくのだ!
はいっ!
分かりました!
御三卿は将軍の後継確保のために、第八代将軍徳川吉宗が新設した家格です。
御三家よりも家格はだいぶ落ちますが、「諸侯より上で、将軍職を次ぐ可能性を持つ」家柄です。
当時、英邁の誉れが非常に高かった一橋慶喜。
非常に頭が良く、際立った秀才肌でした。
慶喜様なら、
この難局を乗り切れる!
老中筆頭の阿部正弘もまた、一橋慶喜の将軍推進派です。
幕末の徳川将軍は頼りない人物が続きました。
それでも日本がなんとか治っていたのは、老中たちが補佐して、将軍は「座っていればよかった」からです。
ところが、そんな頼りない将軍では、様々な外国からの接触を受けている当時、
島津斉彬が藩主となった1851年の2年後には、ペリー提督が米国からやってきます。
我らでも、
どうすれば良いのか分からん・・・
ペリーは突然日本に来たのではなく、事前に幕府に通告していた形跡があります。
また、当時付き合っていたオランダ等から外国の情報をたくさん仕入れていました。
誰か、バシッとした
優れた方に将軍になって欲しい・・・
老中たちも実は「優れた将軍」を望んでいたのが実情だったのです。
薩摩を超えて日本を考えた西郷:強力な大奥への斉彬の秘策
氏名 | 生年 |
島津斉彬 | 1809年 |
松平慶永(春嶽) | 1828年 |
西郷隆盛 | 1828年 |
大久保利通 | 1830年 |
橋本左内 | 1834年 |
一橋慶喜 | 1837年 |
慶喜様、
ごわすか・・・
うむ!
彼ならば、日本を率いるに最適だ!
西郷より9歳年下の「若造」ながら、英邁の誉れ高い一橋慶喜。
一部では、
神君・家康公以来の
人物ではないか!
このように「慶喜を褒め称える」声もありました。
ところが、慶喜には大きな障壁がありました。
一つは御三家である水戸から、格下の御三卿である一橋家に行ってしまったことです。
一度行ってしまったので、今更「なかったこと」には出来ません。
御三家から御三卿へと、格下の家柄となりました。
格下か・・・
もう一つ困ったことがあり、こちらの方が大きな問題でした。
しかし、困ったことが
もう一つある・・・
それは
何ごわすか?
一橋の家柄は、
なんとかなるとしても・・・
慶喜様の実父の斉昭殿が、
大奥の女性たちに、非常に評判が悪い・・・
それは、慶喜の実父である水戸藩主 徳川斉昭が大奥に嫌われていたことでした。
これは、斉昭が「女性に嫌われる振る舞いが多かった」ためです。
徳川斉昭さんは、
嫌い!
ちょっと、あの斉昭さんって、
とても嫌ね!
多くの女性陣に毛嫌いされていたのです。
大奥の女性陣の力は、江戸城で
非常に強力だ。
どうにか
ならんごわすか・・・
うむ。
私に秘策があるのだが・・・
そして、西郷は斉彬の秘策のために奔走することになります。
おいどん(私)が、次期将軍が誰か、を
考えることに関わるとは・・・
元々、薩摩藩の下級藩士に過ぎなかった西郷。
そもそも「薩摩藩主と口がきける」立場ではなかったのです。
まして「雲の上の存在だった将軍が、どうのこうの」というのは夢のまた夢。
「藩主のことを考える」あるいは「藩主と何らかの接触がある」薩摩藩士ですら、限られた存在です。
普通の薩摩藩士にとって、徳川将軍は「雲の上のまた上の存在」でした。
西郷は斉彬の導きで、薩摩を超えて日本を考えるようになってきました。
次回は上記リンクです。