前回は「郷中教育が重視した「十分議論して実行」〜ディスカッションの大きなメリット・明治維新期の世界と日本・日本の識字率・欧米から知識を学ぶ姿勢へ・薩英戦争と下関戦争の戦争体験〜」の話でした。
知識至上主義へ:日本の科学技術力の大幅増強
欧米の最新技術・文化を
我が国が学ぶのだ!
明治新政府発足直後から、欧化政策を急速に進めた明治新政府。
数多くの優れた人物がドイツ・英国などへ留学して、知識を吸収して帰国しました。
帰国後も欧米の書物などを参考にさらに知識を蓄え、日本なりにアレンジを加えて行きました。
もっともっと
学んで、知識を吸収するのだ!
我が日本のために、
もっともっと頑張って勉強するぞ!
その結果、大正・昭和期には「軍艦を自国で生産出来る」ようになりました。
その到達点の一つが、巨大戦艦大和でした。
明治維新後、大きく変化した日本という「国家の姿」。
戦艦大和が誕生した時、すでに故人であった西郷は天国で何を感じていたのでしょうか。
・・・・・
西郷隆盛と大久保利通の描いた「日本の未来像」:根本的に異なる思想
幕末、欧米との「文明の差」を見せつけられた日本。
とにかく、
欧米の知識を身に付けなければ!
若者・子どもたちに、どんどん欧米の知識を
吸収させるのだ!
そして、国力を
増強するのが最優先!
一蔵どん、
それは違か!
知識は
知識にすぎんのだ!
それでは、西郷どんは、江戸時代と
同じ教育を続ける気でごわすか?
それでは、
日本は植民地になってしまう!
おいどんも、一蔵どんも郷中教育で
育ったごわす!
あの教育は、
もう古い!
違う!
違うのだ!
「前時代的かもしれぬ」郷中教育。
かつては「兄弟分の同志」であった西郷と大久保。
明治新政府の政治方針・教育方針に関して、まったく「噛み合わない」事態になりました。
その郷中教育に対する視点もまた、西郷と大久保が「袂を分かつ」一つの理由になったのでしょう。
欧米の文明と日本の文明:「まずは猿真似」が目標
明治維新の際には、「同志」というよりも「結託した親分と子分」だった西郷と大久保。
小さな頃から知り合いで、3歳の差があった西郷と大久保。
この時、大人になっても二人が「対等になる」ことはあり得ません。
例えば、部活で「中一だったA君と、当時高一だった先輩B君」がいるとします。
よう!
Aくん、おはよう!
B先輩!
おはようございます!
そうした上下関係は一生つづき、「A君がB君と対等の口をきく」関係には決してなりません。
仮に、双方が40歳くらいになって「久しぶりに会った」としても「上下関係の断絶」はありません。
「20年ぶりに会った」としても、
よう!
Aくん、元気そうだね!
Bさん!
ご無沙汰しています!
このように「年齢の上下関係」は変わらないのが「世の常」です。
明治元年には西郷隆盛が42歳、大久保利通が39歳でした。
双方、「脂の乗り切った」頃に、明治維新を迎えたのです。
西郷・大久保等と共に、「倒幕」に人生を賭けてきた人々。
徳川幕府を「武力で倒す」という、革命を成し遂げました。
徳川を倒したものの、「新政府の青写真」は誰も描けていませんでした。
これは「能力的な問題」ではなかったのでした。
「倒幕」が、あまりに巨大な目標であったのが最大の理由です。
そもそも、強国(藩)とは言え、滅亡寸前だった長州藩。
幕府を倒して
みせる!
そのためには、薩賊(薩摩への蔑称)や
あの憎い西郷とも組んでやる!
「討幕」に一路邁進した木戸たち。
内心は、
とは言っても、あの幕府を
倒すなんて、本当に出来るのか?
内心はこう思っていて、「半信半疑」だったのが正直なところでしょう。
討幕の先のことを
考える余裕がなかった・・・
幕末、ずっと生死の狭間で生きてきた木戸。
「先のことを考える余裕」は到底なかったもの、五箇条の御誓文などで政府を引っ張ったのが木戸でした。
対して、長州よりもだいぶ余裕があった薩摩は「日本の未来像」を多少は考えていました。
我が国は、
遅れ過ぎている・・・
欧米に
全て学ばねば!
一蔵どん!
それでは、ただの「真似」でないか!
最初は真似で
良いのだ!
「ひたすら学ぶ」というよりも「ひたすら模倣する」方針の明治新政府。
一蔵どん!
それでは、ただの「猿真似」だ!
「猿真似」で
何が悪い!
違う!
違うのだ!
倒幕後は、何もかも「噛み合わない」かつての「親分と子分」だったのでした。
次回は上記リンクです。