前回は「郷中教育が生み出した西郷隆盛と大久保利通の個性〜郷中教育の特殊性とカラー・薩摩と各藩の教育方針の違い・「先輩が先生」である教育・「教える」や「説明する」大事さ〜」の話でした。
郷中教育の方針:自治の教育・青年たちが語り合う場
・切磋琢磨しながら文武の修練に励む
・青少年が胸襟を開いて、語り合う
・風俗を正して、礼儀を重んじる
・語り合う過程で、それぞれ熟考し、衆議を尽くす
・自治の教育
14歳〜20歳くらいの二才が、6歳〜14歳くらいの稚児を教えていた郷中教育。
薩摩藩独特の、藩士教育・育成機関でした。
具体的な主な教育方針は、上の5点でした。
まさに「教育の理想像」と言えそうです。
特に「それぞれ熟考し、語り合う自治の教育」という面が、非常に画期的でしょう。
「青年たちが語り合う場」でもあった郷中教育。
おいどん(私)は、
ここに関しては、こう考えるごわす!
それは違か!
ここはこうすべきごわす!
なぜだ?!
どう考えても、こうごわす!
示現流という特殊な剣術を身につけていた藩士が多い中、喧嘩することもあったでしょう。
そして中には口喧嘩では終わらず、殴り合いの喧嘩も多々あったでしょう。
そうした経緯もまた「成長する過程の一つ」と考えていた郷中教育が薩摩藩士を作り上げたのです。
郷中教育の学ぶ内容:習字・読書・武術鍛錬
・習字・読書
・「四書五経」「太閤記」など軍記物を輪読
・武術鍛錬(剣・馬など)
基本的に「国語重視」です。
そして、学習内容は他の藩の寺子屋や犯行とは同様でした。
学ぶことが同様であっても、「学ぶ形態・プロセス」が大きく異なるのが郷中教育でした。
あれ?
算数とか理科は?
当時は、算数は「算盤が基本」という考え方でした。
日常生活で足したり引いたり、四則演算の基本がしっかりできる事が推奨されました。
当時においては、算数は「現代の数学」相当であり、藩校の造士館など学んでいたでしょう。
おいどんは、
算盤なら自信あるごわす!
西郷隆盛も造士館で学んでいて、若い頃は算盤が得意だったのです。
西郷はこの基礎力を縦横無尽に活かして、若き頃一生懸命働きました。
算数は、
やらなくても良かったの?
算数は「和算」と呼ばれ、日本は世界的にも、かなりハイレベルでした。
当時は、算数は「それほど重視されてなかった」のが実情です。
さらに算数・理科に関しては、当時の日本は、世界的に少し遅れていたのが実情です。
平賀源内のような方もいましたが、一般的庶民は算数や理科を学ぶ環境にはありませんでした。
和算家(数学者)として、極めて優れた功績を残した関孝和もいた江戸時代。
ところが、欧州のような「体系化された学問」が構築される状況にはありませんでした。
西郷隆盛を形作った郷中教育:上下鍛える教育観
「自治」だった郷中教育においては、教育方針の骨格が決まっていても、内容は二才次第でした。
算数や理科が得意な二才が、稚児に算数・理科を教えたかも知れません。
国語と武術重視だった当時、算数・理科を重視する教育は少なかったでしょう。
あったかもしれませんが、時間も少なかったでしょう。
まずは、身体を鍛錬し、
武術を鍛えよ!
弱い奴は、
薩摩男子ではなかっ!
はいっ!
一生懸命鍛えます!
特に薩摩では、武術や身体鍛錬に極めて重きが置かれていたでしょう。
二才によって変わる教育方針もまた、その「郷中ならでは」のカラーです。
薩摩藩が「武を非常に重んじる国」であることは、非常に大きな特徴です。
このため、教育においても他の藩よりも武術・剣道に重きを置いたのでしょう。
西郷と同じ下加治屋町の郷中で育ち、「兄弟同然だった」のが大久保利通でした。
大久保は明治維新を機に「利通」と名前を変えましたが、昔は「大久保一蔵」という名前でした。
それほど武術は得意ではなかった大久保。
まあ、基本的な武術は
出来るごわすが・・・
おいどんは、「剣で生きてゆく」
タイプではないごわす・・・
大人の肖像を見ても、あまり運動などを活発にするタイプには見えません。
大久保は郷中時代は比較的平凡で、特段話題になる人物ではありませんでした。
そして、下加治屋町の郷中で「教える側」の二世のボス「二世頭」となった西郷。
お前たち!
学問は、このようにするが良かっ!
はいっ!
一生懸命学びます!
西郷の人を惹きつける力は、ここで養われたかもしれません。
次回は上記リンクです。