西郷隆盛の個性と精神育んだ郷中教育〜圧倒的個性を持っていた西郷・才能とは何か・寺子屋との大きな違い・郷中教育と現代日本の教育の違い・ディスカッションの重要性〜|西郷隆盛1・人物像・個性・才能

前回は「第二次世界大戦の軍人・威人達から学ぶこと〜第二次世界大戦の歴史に蓋をする歴史教育・現代日本には「いない」軍人から学ぶこと〜」の話でした。

西郷隆盛(国立国会図書館)
目次

圧倒的個性を持っていた西郷:才能とは何か

明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

今回は、西郷隆盛を考えてみましょう。

「非常に優れた才能を持つ」人物である西郷隆盛。

幕末維新期において、極めて大きな活躍した西郷。

まさに「獅子奮迅の活躍」とも表現できるその活動は「西郷しかできない」ことでした。

優れた人物が「キラ星のごとく」登場した幕末維新。

非常に大きな才能を持った人物には「維新の三傑」の他の二人である大久保利通、木戸孝允がいます。

二人とも個性・才能共に際立った存在です。

一方で、個性・才能共に西郷と比較すると霞んでしまう存在です。

まさに「西郷のみ」とも言える「類まれなる」個性と才能でしょう。

「才能とは何か」というのは難しい話ですが、西郷は「圧倒的個性」を持っていました。

そもそも「維新の三傑」と言っても、西郷の存在は際立った存在で「他と同格」ではありません。

年齢的には、西郷が大久保より3歳上、木戸より6歳上です。

幕末志士らの年齢(歴史道Vol.6 朝日新聞出版)

学生時代は、1歳の違いでも先輩です。

そして、社会に出ても1,2歳の差はともかく「3歳以上の年齢差は大きい」のが実情です。

どう考えても「先輩」として「ある程度敬う」存在となります。

上の幕末志士・幕臣たちの中で、勝海舟を除くと西郷隆盛は「最も先輩」にあたります。

西郷のその類まれなる個性・才能、それは「持って生まれた天賦の才」とも言えます。

さらに、「育ちの環境」と「教育」そして「人生経験」が「西郷を西郷たらしめた」のでしょう。

西郷隆盛の個性と精神育んだ郷中教育:寺子屋との大きな違い

寺子屋(Wikipedia)

若かりし頃の西郷を育てた環境を考える時、薩摩独特の「郷中教育」は極めて大事です。

江戸期から幕末にかけて、各藩には藩校・寺子屋などが教育機関となっていました。

西郷を生み出した薩摩にも「造士館」という藩校がありました。

江戸時代の藩校・私塾:図解幕末史(インフォレスト)

苛烈な風土で知られた薩摩では、一種独特の教育制度を持っていたのです。

当時、薩摩は「郷」という行政単位があり、一種の村のような組織から成り立っていました。

その郷の中で行われていたのが、薩摩藩独特の藩士育成教育法:郷中(ごじゅう)教育です。

各郷には「咄相中(はなしあいじゅう)」と呼ばれる青少年の団体がありました。

そして、咄相中は郷中教育の中核となりました。

郷中教育のグループ

二才(にせ):元服(14~15歳)から20歳頃

稚児(ちご):6~8歳頃から元服まで(14歳頃)

青少年たちは、年齢に応じて上の二才(にせ)と稚児(ちご)に分かれました。

これら二才・稚児が加わった異年齢集団が、お互い切磋琢磨したのが郷中教育です。

今なら、小学校一年生から20歳頃という大学一・二年生まで十数年間「同一組織」に所属したのです。

この「教育」は最も薩摩らしい強烈な教育でした。

物心ついた小学校一・二年生が、大学一・二年生と「一緒に学んだ」のです。

もちろん、上の二つのグループがあった以上、「二才は二才で集まった」でしょう。

対して、「稚児は稚児で集まった」でしょう。

時代が異なっても、10歳の子どもにとって「16歳の青年」は「とても大きな存在」です。

「同じ郷中」だからと言って、毎日「二才と稚児が接した」かは郷のカラーによるでしょう。

二才は後輩たち・稚児たちを指導する立場でしたから、

二才A

おい!
今日は論語を学ぶぞ!

稚児B

はい!
分かりました!

二才A

それでは、
書物のこのあたりを開いて!

稚児B

はい!
準備できました!

二才A

それでは、東郷よ!
朗読してみよ!

稚児B

はいっ!
子、曰く・・・

とにかく「朗読」に極めて大きな比重が置かれていた、この頃の学び。

あの猛烈な薩摩藩士を育てた郷中教育なので、

二才A

東郷っ!
声が小さいっ!

二才A

その読み方は、声だけ出しているのだ!
もっと、身体全体で読むのだ!

稚児B

は、はいっ!
子!曰く!・・・

このような「薩摩らしい」苛烈な教育もあったかも知れません。

これら年齢の隔たりの大きい青少年たちが、親しく胸襟を開いて語り合い、切磋琢磨しました。

そして、大事なポイントは文武修練の自治教育であり、熟考の上衆議を尽くしたことです。

これは全ての年齢の子供たちに取って、非常に強烈な経験でしょう。

二才A

よしっ!それでは、東郷は
ここに関して、どう考える?

稚児B

は、はいっ!
私は〜と考えます。

二才A

うむ・・・
それでは大山は、どう考える?

稚児C

はいっ!
私は〜と考えます・・・

小学校では校庭で1年生〜6年生が一緒に遊びますが、他の学年は関係ないのが普通です。

例えば、小学校3年生と小学校6年生は基本的に「話す関係」にありません。

4年生から部活に入り、5,6年生という「1,2つ上のお兄さん、お姉さん」と一緒に活動します。

小学生にとって、大学生は「お兄さん・お姉さんを超えた存在」でしょう。

当時の日本において、薩摩藩が非常に際立った個性をもつ藩・組織であったことが大事です。

それもまた、この「際立った教育」あってのことだったのです。

郷中教育と現代日本の教育の違い:ディスカッションの重要性

陸軍元帥・大将 西郷隆盛(歴史REAL 「西郷隆盛の生涯」)

こういう教育環境が、「西郷隆盛を生み出した」とも言えるでしょう。

明治に入って「欧米に追いつけ、追い越せ」で、暗記中心の教育となってしまった日本の教育。

衆議を尽くして、子供たちがディスカッションをしていた郷中教育。

対して、ディスカッションがほとんどない今の日本の教育。

小学校で課題発表をして「意見を言う」ことはあるでしょうが、そんなに活発ではないのが一般的です。

小学校教員A

〜くん、これに関しては
どう考えますか?

男子小学生

はい!
これは「〜」と感じました。

「感じること」に対しても、「ある程度の答え」が想定されている教育。

これでは、ディスカッションというレベルではないでしょう。

学校の「発表」や「意見を言う」は、大抵は「ある程度想定された答え」を話し合う単なる「トーク」です。

郷中教育は極端な例ですが、今の教育においても「参考となる面」が非常に多くあると考えます。

次回は上記リンクです。

新教育紀行

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