前回は「歴史上の人物とまとめと流れ〜最後の将軍・後藤象二郎・坂本龍馬〜」の話でした。
今回は、少し細かい歴史上の人物です。
1の方は分からなくても大丈夫ですから、ぜひ、ここで覚えましょう。
1.幕末の土佐出身の軍人。西南戦争の際には熊本鎮台司令官。
西郷隆盛率いる薩摩軍から、熊本鎮台=熊本城を守り抜く。
後に政治家に転身し、農商務大臣等歴任。
2.西南戦争の際に1の人物を参謀として補佐し、薩軍からの熊本鎮台防衛に貢献。
台湾総督を経て、日露戦争の際には満州軍総参謀長として日本勝利に大きく尽力。
土佐藩出身の猛将:谷干城
1は少し難しいですが、谷干城です。
読み方は「たに たてき」でも「たに かんじょう」でも良いです。
同じ土佐の乾退助(板垣退助)とともに、主に土佐藩士を率いて討幕に大きく貢献しました。
この、いかにも強そうで危険そうな軍団・迅衝隊。
土佐藩士を中核とする新政府軍の超強力な舞台であり、隊長は土佐藩上司出身の乾退助。
後の板垣退助です。
そして、乾(板垣)と共に銃弾の中を駆け巡り、戦い続けた人物が谷でした。
幕末指折りの、非常に優秀な陸軍軍人です。
板垣同様に非常に「熱い男」であった谷。
武士らしさ貫いた生き様:土佐と長州と薩摩
新政府軍では、薩長土肥の一角に躍り出た土佐藩の重要人物として、活躍した谷。
実は、新政府軍の方針に反感を持っていました。
土佐出身の政治家の中でも、一際「武士らしい」風格の谷干城。
対して、長州藩出身の政治家たちは、土佐藩を見下すかのような姿勢でした。
土佐は最後の最後で、
こっち(新政府)についただけ!
時代を切り拓いたのは
我が薩長だ!
特に、幕末に「過激派集団の総本山」のような存在であった長州藩。
確かに、長州藩が「幕末維新に先鞭つけた」と言えなくもないのが現実でした。
一緒に
戦ったのに・・・
こうした「郷党意識」があることはやむ得ませんが、谷が不愉快だったのは、
長州の奴ら、
図に乗り過ぎだ・・・
長州出身の山縣有朋、井上馨たちは政府高官となった後、汚職まみれの人生を送ります。
俺たちは
生命かけて戦ったんだから、これくらいはいいんだ!
俺だって、何度も死にかけたんだから、
お金くらい自由にしてもいいだろう!
自分の子飼いの商人たちに、政府のお金を無断で貸し付けたり、便宜を図ったり、平気だったのでした。
顔つきからして、こういう汚職とは無縁の木戸は、そういうことはしませんでした。
ところが、「木戸の子分」たちは、やりたい放題。
現代であれば、「即、政治生命が終わる」レベルでした。
伊藤博文は、そこまで悪党ではなかったですが、
公金流用くらい、
まあいいじゃん!
という性格でした。
全く・・・
揃いも揃って、長州の連中は・・・
薩摩の連中は、
こういう悪事はしないが・・・
バリバリの軍人であった谷にとっては、政治家というより軍人が多い薩摩の方が共感持てます。
武士らしい薩摩連中とは
気が合うのだが・・・
中学校・高校と同様に、明確なカラーが分かれていた各藩出身者たち。
どうしても長州藩の連中とは「親しめない」谷でした。
私も私なりの理想を持って、
戦ったのだが・・・
悶々とする中、
谷よ!
熊本鎮台司令官を任せる!
「事実上の総理大臣」であった大久保の抜擢を受けます。
薩摩が、薩摩が
将来暴発するかも知れぬ・・・
お任せを!
私が指揮する限り、
熊本鎮台は、誰にも抜かせませぬ!
そして、西郷隆盛率いる「最強軍団」薩摩藩士が起こした西南戦争。
他には、西南戦争では反政府軍の西郷・薩軍に徹底的に抗戦します。
西郷軍を指揮した桐野は、前陸軍少将であり、かつては熊本鎮台司令官を務めた人物。
そして、「薩摩武士を絵に描いたような存在」であった桐野。
熊本鎮台(城)なんか
鎧袖一触よ!
我が薩摩軍なら
容易に抜いて・落城できるぜ!
私を
舐めるなよ!
当時、日本最強だった「超強力な薩軍」から熊本鎮台を防衛します。
こんな、
こんな馬鹿な・・・
これは、谷の軍事能力の際立った高さを示します。
熊本鎮台(城)の攻撃失敗が、西郷軍の致命傷となりました。
もう・・・
もう、ここらでよか・・・
西南戦争を戦い抜いた若き参謀
2は児玉源太郎です。
熊本鎮台で准参謀として谷を補佐したのが児玉でした。
若い頃から非常に優秀で、将来を嘱望されていた児玉源太郎は長州藩の支藩:徳山藩出身です。
薩軍に熊本鎮台が攻撃され、児玉が陸軍少佐として籠城しました。
新政府側から非常に重視されていた児玉は、西南戦争の前の「神風蓮の乱」の際、
児玉に何かあっては、
大変困る・・・
と心配した政府幹部。
児玉少佐は
無事か!
と、何はともあれ無電を打つほど、「児玉は上層部に買われていた存在」でした。
日露戦争と児玉満州軍総参謀長
その後、台湾総督を経て、軍人兼政治家の道を歩きました。
日露戦争では満州軍総参謀長として、日本よりもかなり強大なロシア陸軍撃退を主導します。
日露戦争では、児玉は政府の「中心人物の一人」というより、「中核の人物」でした。
そして、前線の「満州軍総参謀長就任」は事実上の降格人事でした。
現実主義の児玉は、
祖国日本の為であり、
降格であろうが・・・
そんなことは、
どうでも良い!
総参謀長は、
私でなければ、日本は敗北する!
と自ら勇んで総参謀長を引き受け、前線に行きます。
当時のロシアは日本の5〜10倍の国力・兵力を持つ圧倒的大国でした。
児玉が知恵を振り絞って辛勝に持ち込み、日本海海戦での日本快勝となりました。
そして、米国の仲裁により日本勝利となります。
なんとか・・・
なんとか勝利したのう・・・
日露戦争で疲れ切った児玉は、日露戦争終戦翌年の1906年に病気で亡くなりました。
あとは、
任せた・・・
日露戦争でエネルギーを使い果たし、自らの生命を燃やし尽くした児玉。
「事実上の戦死」とも言えるでしょう。
存命していたら、総理大臣になったかも知れないほどの存在だった児玉源太郎。
そして、 日露戦争の当時、世界一の強国で、世界中に領土を持っていた英国。
開戦直前の1902年、大英帝国と日英同盟を結んだ大日本帝国。
この日英同盟は日露戦争勝利に向けて、日本に極めて大きなメリットをもたらしました。
次回は下記リンクです。