前回は「歴史上の人物とまとめと流れ〜征韓論争・大政奉還・陸援隊・海援隊〜」でした。
今回も歴史上の人物・出来事の確認です。
1.徳川幕府最後の将軍。
2.1の人物が朝廷に政権を返上した出来事。
最後の将軍:徳川慶喜
1は江戸幕府第十五代将軍 徳川慶喜です。
名前は、すぐ出ると思いますが、第十五代と「慶喜」の字も覚えておきましょう。
2は大政奉還です。
漢字で書けるようにしておきましょう。
大政奉還は、坂本龍馬の発案とされます。
形式的には、
朝廷から徳川幕府の大政委任されているぜよ・・・
だから、
徳川から、朝廷に大政を返せば・・・
薩長は、
徳川を攻撃する理由がなくなるぜよ・・・
具体的に、竜馬がどのように関わったのかは諸説あります。
なるほど、
それは名案だ!
土佐藩の総理大臣格である、参政であった後藤象二郎。
殿、
この大政奉還こそ、徳川の生きる道!
おそらく、龍馬らの意見を土佐藩参政(家老) 後藤象二郎が取りまとめたのでしょう。
即断即決した将軍慶喜:後藤象二郎の画策
うむ!
これで徳川は救われるな!
慶喜様!
大政奉還こそ、徳川のため!
大政奉還だと?
ちょっと話を聞かせてくれ!
ここで、将軍慶喜は、後藤象二郎を呼んで話を直接聞きます。
写真の通り、かなり太々しく傲岸な性格であった後藤象二郎。
「土佐の総理大臣」である後藤といえども、藩主の山内容堂が将軍慶喜の家臣です。
つまり、容堂の家臣である後藤象二郎は、将軍慶喜にとって「家臣の家臣(陪臣)」です。
そもそも、「将軍慶喜と同席すること」が信じられない時代。
慶喜様・・・
大政奉還とは・・・
傲岸な後藤ですが、あまりの緊張に「背中に冷や汗をかきながら」将軍慶喜に説明しました。
よし!
それでいこう!
頭脳明晰であった将軍慶喜。
270年近く続いた徳川幕府を「なくす」ことを、早々に決断しました。
普通の将軍ならば、しばらく逡巡するはずの「大きすぎる決断」。
それに対して、ほぼ「即断即決」に近い素早さで決断したのが慶喜でした。
大政奉還!
私は最後の将軍!
でも、
徳川の力は温存!
そして、新たな政治体制へ移行し、
そこで「最初のトップ」となる!
奇策であった「大政奉還」。
「朝廷に形式的に大政(政治の権限)」を変換することを試みた徳川慶喜。
そして、
「最後の将軍」であり、
「最初のトップ」だ!
これこそ、
私に相応しい!
「徳川家の地位・力を温存」しようと図ったのが徳川慶喜でした。
薩摩の思惑:武力討幕へ
バリバリ武力討幕をするつもりだった西郷・大久保らの薩摩藩。
西郷と大久保は、困惑します。
大政奉還、
だと・・・?
困った
ごわすな・・・
大政奉還したところで、
超強力な徳川家の力は温存されたまま。
これは
絶対に困る!
なんとか戦争に持ち込み、
徳川家をブチ倒さねば!
倒幕ではなく、討幕でなければ、
新しい世はつくれない!
そのためには、
いかなる手段をもってしても!
そして徳川幕府を挑発して鳥羽・伏見の戦いに強引に持ち込んだ薩長。
最後には「誰も見たことがない」「錦の御旗」が出てきて、新政府軍の勝利となります。
私は
朝敵なのか・・・
後藤象二郎は新政府においても活躍し、征韓論騒動で西郷らと共に下野します。
その後復帰して、黒田清隆内閣では逓信大臣を務めます。
鳥羽・伏見の戦い前後の流れも、おさらいしましょう。
上の絵で左側:幕府軍、右側:薩長・新政府軍です。
そして、右端に「大山巌」の名前が見えます。
実は、のちに山川捨松と結婚するのが大山巌です。
時代遅れだった幕軍は、フランスの支援を受け、急速に西欧化しました。
そして、フランス製の武器を持っていましたが、すでに時代の変化に置いて行かれていました。
鳥羽・伏見の戦いで戦闘した幕軍よりも、イギリス製の武器を持つ薩長軍の方が最新鋭で強かったのです。
また、「錦の御旗」によって、幕軍から「寝返る大名」がたくさん出たもの痛恨の打撃でした。
上の絵で、右側(薩長)から左側(幕軍)に猛烈な射撃がなされているのが、特徴的です。
次回は下記リンクです。