前回は「歴史上の人物とまとめと流れ〜征韓論・明治6年の政変・鋼鉄の精神を持つ男岩倉具視・陸援隊の中岡慎太郎と海援隊の坂本龍馬・坂本と中岡の暗殺〜」でした。
今回も歴史上の人物・出来事の確認です。
1.徳川幕府最後の将軍。
2.1の人物が朝廷に政権を返上した出来事。
「最後の征夷大将軍」徳川慶喜
1は江戸幕府第十五代将軍 徳川慶喜です。
名前はすぐ出ると思いますが、第十五代と「慶喜」の字も覚えておきましょう。
徳川幕府最後の将軍の名前を
漢字で書きなさい。
「徳川幕府最後の将軍」を直接答える問題でなくても、「徳川慶喜が答え」の問題は想定されます。
きちんと漢字で書けることが大事です。
実は、「とくがわよしのぶ」と呼ばれる徳川慶喜は、「とくがわけいき」とも呼ばれていました。
余は
徳川けいき、なのだ!
慶喜自身も「とくがわけいき」と名乗っている記録もあります。
この「とくがわけいき」の呼び方に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
2は大政奉還です。
この「大政奉還」も漢字で書けるようにしておきましょう。
大政奉還は、坂本龍馬の発案とされます。
形式的には、
朝廷から徳川幕府の大政委任されているぜよ・・・
だから、
徳川から、朝廷に大政を返せば・・・
薩長は、
徳川を攻撃する理由がなくなるぜよ・・・
具体的に、坂本龍馬が「大政奉還にどのように関わったのか」は諸説あります。
なるほど、
それは名案だ!
土佐藩の総理大臣格である、参政であった後藤象二郎。
殿、
この大政奉還こそ、徳川の生きる道!
おそらく、龍馬たちの意見を土佐藩参政(家老) 後藤象二郎が取りまとめたのでしょう。
即断即決した将軍慶喜と後藤象二郎の画策
うむ!
これで徳川は救われるな!
喜び勇んだ「徳川べったり」の藩主 山内容堂は、将軍慶喜に進言しに江戸へ向かいました。
慶喜様!
大政奉還こそ、徳川のため!
大政奉還だと?
ちょっと話を聞かせてくれ!
ここで、将軍慶喜は、
ふむ・・・
確かにそれは良い手だのう・・・
我が藩の参政である
後藤象二郎がまとめました!
ならば、その後藤とやらの
話を直接聞きたい!
ははっ、
後藤の話をお聞きになって下さい!
そして、慶喜は後藤象二郎を呼んで、話を直接聞くことにしました。
後年、「愚か者」と表現されることも多い徳川慶喜は、頭が良いことは間違いなく、
私が直に「後藤と会う」のは
異例かもしれんが・・・
ここは肝心なところだから、
慣例など、どうでも良い!
きちんと物事を進めるためには「何がベストか」を、自ら判断できる優れた人物でした。
大樹様に、
私が直接に説明するのですか・・・
写真の通り、かなり太々しく傲岸な性格であった後藤象二郎。
「土佐の総理大臣」である後藤といえども、藩主の山内容堂が将軍慶喜の家臣です。
つまり、容堂の家臣である後藤象二郎は、将軍慶喜にとって「家臣の家臣(陪臣)」です。
そもそも、「将軍慶喜と同席すること」が信じられない時代。
慶喜様・・・
大政奉還とは・・・
さすがに、俺ほどの男でも
大樹様の前では緊張するな・・・
傲岸な後藤ですが、あまりの緊張に「背中に冷や汗をかきながら」将軍慶喜に説明しました。
よし!
それでいこう!
頭脳明晰であった将軍慶喜は即決しました。
270年近く続いた徳川幕府を「なくす」ことを、早々に決断しました。
これはベストな
案である!
普通の将軍ならば、しばらく逡巡するはずの「大きすぎる決断」。
それに対して、ほぼ「即断即決」に近い素早さで決断したのが慶喜でした。
大政奉還!
私は最後の将軍!
でも、
徳川の力は温存!
そして、新たな政治体制へ移行し、
そこで「最初のトップ」となる!
大奇策であったのが「大政奉還」でした。
朝廷に「形式的に大政(政治の権限)」を返還し、「新体制のトップ就任」を試みた徳川慶喜。
そして、
「最後の将軍」であり、
「最初のトップ」だ!
これこそ、
私に相応しい!
形式論は別として、「徳川家の地位・力を温存」を図った徳川慶喜でした。
薩摩の「武力討幕」の思惑:西郷隆盛と大久保利通の暗躍
バリバリ武力討幕をするつもりだった西郷・大久保らの薩摩藩。
西郷と大久保は、困惑します。
大政奉還、
だと・・・?
困った
ごわすな・・・
大政奉還したところで、
超強力な徳川家の力は温存されたまま。
これは
絶対に困る!
なんとか戦争に持ち込み、
徳川家をブチ倒さねば!
倒幕ではなく、討幕でなければ、
新しい世はつくれない!
そのためには、
いかなる手段をもってしても!
そして、西郷隆盛と大久保利通は暗躍を続け、徳川幕府を挑発し続けました。
徳川幕府が
怒りを爆発させるように仕向ける・・・
案の定、「堪忍袋の尾」を切った徳川幕府は、
おのれ、薩摩よ!
良い加減にしろ!
ふっふっふ・・・
これで良か・・・
激怒した幕府に対して、西郷は内心は会心の笑みを浮かべていました。
そして、鳥羽・伏見の戦いに強引に持ち込んだ薩長。
最後には「誰も見たことがない錦の御旗」が登場して、新政府軍の勝利となります。
私は
朝敵なのか・・・
後藤象二郎は新政府においても活躍し、征韓論騒動で西郷らと共に下野します。
その後復帰して、黒田清隆内閣では逓信大臣を務めます。
自慢じゃないが・・・
俺は相当な切れ物で、政治力抜群だ・・・
顔つき通り、新政府では「危なっかしいこと」を沢山やったのが後藤でした。
鳥羽・伏見の戦い(上の絵)で左側:幕府軍、右側:薩長・新政府軍です。
そして、右端に小さく「大山巌」の名前が見えます。
おいどんは
大山巌と申すごわす!
若い頃から、西郷隆盛に可愛がられた大山巌は、
おいどんが、大日本帝国の
陸軍の最高司令官ごわす!
後に満州軍総司令官となり、日露戦争を勝利に導きました。
実は、のちに山川捨松と結婚するのが大山巌です。(上記リンク)
鳥羽・伏見の戦いの頃は、26歳で「大山弥助」と名乗っていた大山は頭も良く、
おいどんが開発した
弥助砲(大砲)をお使いくだされ!
大山が開発し、自身の名前をつけた「弥助砲」が大活躍しました。
我が幕軍は、ナポレオンの
フランス陸軍の後援を受けている!
軍勢も多く、薩長軍ごときに
負けてたまるか!
時代遅れだった幕軍はフランスの支援を受け、急速に西欧化しました。
そして、フランス製の武器を多数持っていましたが、すでに時代の変化に置いていかれていました。
鳥羽・伏見の戦いで戦闘した幕軍よりも、イギリス製の武器を持つ薩長軍の方が最新鋭で強かったのです。
さらに、「錦の御旗」によって、
に、錦の御旗が
登場しただと・・・
徳川幕府には申し訳ないが、
新政府側に転じます!
幕軍から「寝返る大名」が多数出たことも、徳川幕府にとって痛恨の打撃でした。
上の絵で、右側(薩長)から左側(幕軍)に猛烈な射撃がなされているのが、特徴的です。
さらに、「左側(幕軍)の方が遥かに多い人数」に描けれている点もポイントです。
・左側(幕軍)の方が遥かに多い人数で、右側(薩長)が明らかに人数では劣勢
・左側(幕軍)の後方の兵は「何もしていない」のに対して、右側(薩長)は全員戦っている
このように「歴史の絵を見て考える問題」としても、考えてみると良いでしょう。
次回は下記リンクです。