特権階級と死闘続けた後藤新平〜廃藩置県と身分制度の大きな変革・徳川幕府の国家運営と「士農工商」の身分秩序・超強力だった殿様の力〜|後藤新平24・人物像・エピソード

前回は「完全包囲されて燃える後藤新平〜絶大だった帝大(東大)の影響力・別格の「帝大」という存在・相馬事件の大衝撃・戦国時代からの名家相馬家のパワー」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
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徳川幕府の国家運営と「士農工商」の身分秩序:超強力だった殿様の力

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幕末の徳川幕府重鎮:左上から時計回りに第十四代将軍 徳川家茂、第十五代将軍 徳川慶喜、老中 阿部正弘、大老 井伊直弼(WIkipedia)

1883年から1895年の間に、後藤新平が巻き込まれた相馬事件。

当時、内務省厚生局長という高級官僚であった後藤新平でしたが、相手が強力すぎる存在でした。

いわば「相手が悪すぎた」状況であり、どうにもならない状況でした。

後藤新平

敵は旧大名で
華族の相馬家か・・・

旧大名で華族である相馬家を完全に敵に回した後藤。

日本人A

後藤さんは、華族の相馬家を
敵に回しているらしいよ・・・

日本人B

えっ!華族を敵に?
それは、無理筋ってもんだろう・・・

幕末の1857年に生まれた後藤新平にとって、明治維新は11歳(現代の数え方)でした。

現代の小学校5年生の頃まで「封建制度」のもとで生きてきた後藤にとっては、

後藤新平

昔は大名といえば、
絶対的な存在であった・・・

「大名」という存在を肌身で理解していました。

江戸時代においては、徳川将軍は「雲の上の存在」であり、大老・老中(総理大臣格)もまた高貴な存在でした。

そして、明治維新によって、江戸時代に強く日本社会を支配していた「階級」が大きく消えました。

「藩の外に出る」ことすら、大名の許可がなければ「原則として不可能」であった江戸時代。

「士農工商」の身分制度が厳格にありました。

江戸時代の身分制度

・武士:約7%

・町人:約5%

・百姓:約85%

・その他:約3%

勉強して立身出世することは、ある程度可能でしたが「身分は一生変わらない」が基本でした。

この中で、大多数である約85%を占めた百姓に重い税をかけて、

徳川幕府

百姓は「生かさず、殺さず」で、
たっぷり税を取るのだ・・・

徳川幕府や諸大名は考えて、「農民への税金」で国家が成立していた時代でした。

徳川幕府の「国家のコントロール」の手法は明確であり、

徳川幕府

だが、それでは百姓が
嫌になってしまうだろうから・・・

徳川幕府

士農工商の身分制度で、
百姓・農民は二番目にしてあげよう・・・

と、農民を「世の中で二番手の存在に祭り上げる」ことで、不満のガス抜きを図りました。

農民たちにとっては、

農民P

俺たち、世間では「二番手」
らしいけどさ・・・

農民Q

とにかく、殿様たちには
俺たちは絶対服従しかないし・・・

「二番目」だった百姓・農民でしたが、「一番目」の武士との階級は隔絶していました。

まして、大名・藩主は「殿様」であり、完全に「別格」の存在でした。

島津国父(事実上の藩主) 島津久光(国立国会図書館)
島津久光

西郷は
島流しだ!

封建制度における大名・殿様の権力は絶大、というよりも絶対的でした。

あの西郷隆盛といえども、

西郷隆盛

おいどんは、
また島流しごわすか・・・

事実上の藩主であった島津久光の逆鱗に触れただけで、島流しになりました。(上記リンク)

藩内の人間を島流しにしようと、切腹させようと「殿様の一存」だった異常な時代でもありました。

特権階級と死闘続けた後藤新平:廃藩置県と身分制度の大きな変革

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

この中、1868年の明治維新に至りました。

西郷隆盛

徳川幕府を
ぶっ潰したごわす!

大久保利通

これからは
新たな世が始まるのだ!

木戸孝允

日本の国家の姿を
一新するのだ!

まだ、戊辰戦争が続く中、明治新政府は「五箇条の御誓文」を公布しました。

木戸孝允

新たな世となるのだから、
その基軸となるコンセプトは早急に発表すべきだ!

大久保利通

確かに!
徳川時代とは全然違うことを示すのだ!

まだまだ内戦状態の中、越前福井藩出身の由利公正(三岡八郎)が「素案」をまとめました。

木戸孝允

これからの時代は、
広く会議を開き、みんなで話し合うのだ!

そして、木戸自らが加筆して中心となり、「五箇条の御誓文」まとめました。

この頃、長州藩総帥であり、絶大な政治力を発揮した木戸。

桂小五郎から木戸孝允へ変名しました。

木戸孝允

私は桂小五郎から
木戸孝允となり、新政府を率いよう!

新教育紀行
鳥羽・伏見の戦い(Wikipedia)

鳥羽・伏見の戦いが1868年1月であった当時、「五箇条の御誓文」公布は1868年4月でした。

「五箇条の御誓文」は非常に短い文章ですが、「新政府の基本コンセプト」が全て込められていました。

木戸孝允

大急ぎで
「五箇条の御誓文」を作成・公布するのだ!

鳥羽・伏見の戦いから「高々3ヶ月」という超短期の間に、「五箇条の御誓文」は作成・公布されました。

この「非常に短い期間」から、新政府の意気込みが感じられます。

そして、明治維新になって「四民平等」が推進されて、身分制度は一気に変革しました。

明治維新後の身分制度

・華族・士族:約5.7%

・平民:約93.4%

・神官など:約0.9%

農民と町民は「まとめて平民」となり、旧大名は華族、武士は士族となりました。

「四民平等」を謳い、一気に大きく変革した身分制度でした。

ところが、現代と比較すると「身分の差」は現実として、まだまだありました。

実際、華族や士族と平民では全然違う立場でした。

これらの身分秩序の間には、「格が違う」を超えた「立場の大きな違い」がありました。

「平民が華族に歯向かう」のは「事実上不可能である空気」があったのが現実でした。(上記リンク)

その中、華族である相馬家のお家騒動に自ら飛び込み、特権階級と死闘を続けることになった後藤。

後藤新平

・・・・・

特権階級である華族に加えて、当時はただ一つだった帝大・衆議院議長をも完全に敵に回した後藤。

後藤新平

・・・・・

状況は「かなり悪い」というよりも「究極的に最悪に近い」状況でした。

次回は上記リンクです。

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