心機一転医学部へ進学した後藤新平〜医学部での猛勉強・あり余るエネルギーを全て学びへ・若手の医師へ・征韓論争とガラガラになった明治新政府〜|後藤新平14・青年時代・学歴

前回は「安場保和との出会いと開かれる後藤新平の運命の扉〜気性の荒い後藤青年:問題児筆頭の若き頃・放任主義・「賊」と言われて激怒・嫌になって上京後すぐ仙台へ〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

心機一転医学部へ進学した後藤新平

安場保和 胆沢県大惨事(副知事)(Wikipedia)

後藤少年に目をかけてきた安場。

後藤少年が「嫌になって東京から仙台へ帰った」話を聞いて、

安場保和

後藤の気持ちも
分かる・・・

安場保和

賊と呼ばれては、
男子たるもの、生きてはいけぬ・・・

気持ちは分かるものの、これでは後藤は大成しようがありません。

安場保和

後藤の奴、
あの性格だ・・・

安場保和

仕方ないが、このままでは、
新平はマズイな・・・

後藤少年の「素質」は認めるものの、このままでは仕方ありません。

後藤新平

うおお〜っ!!
俺は賊ではない!

後藤新平

俺は悪いこと
などしていない!

10代中頃のエネルギーが有り余っている青年時代。

思春期、成長期は誰でもエネルギーの行き場が欲しくなります。

安場保和

あのエネルギーを
勉学に向かわせるのが良いだろう・・・

安場保和

思い切り勉強させるのが
良いだろう・・・

安場保和

理解力は
高そうだ・・・

福島県に赴任し、産業・教育振興に力を入れていた安場。

それだけに、「子どもの育て方」には大いなる知見を持っていたのでした。

安場保和は、須賀川に福島県立須賀川病院・医学校(現 福島県立医科大学)を設立しました。

安場保和

後藤よ。
医学を志さないか!

安場保和

一生懸命学ぶなら、
学費は援助しよう!

後藤新平

有難う御座います!
一生懸命学びます。

そして、出来たての須賀川医学校に入学しました。

後藤新平

俺が
医師か・・・

心機一転、医学を志した後藤新平青年でした。

医学部での猛勉強:あり余るエネルギーを全て学びへ

内務卿 大久保利通(国立国会図書館)
後藤新平

安場さんは、
私の恩人だ!

後藤新平

安場さんの期待に
応えるためには・・・

後藤新平

一生懸命勉強する
しかない!

そして、後藤少年は猛勉強しました。

後藤新平

勉強は大変だが、
数学や物理も面白い。

後藤新平

優れた医師に
なるぞ!

猛烈に勉強した後藤少年は、わずか二年半で卒業して医師として出発します。

現在、六年間の医学部教育が「二年半」という理由。

それは、後藤少年が優れた頭脳の持ち主であり、猛烈に頑張ったこともあります。

ただ、いかに猛烈に頑張ろうと「二年半は二年半」です。

大久保利通

とにかく、
欧米の知識を身に付けなければ!

後藤新平の「医学部生の期間」が異常に短かったことには、理由がありました。

それは当時、明治政府が「西洋医学の医師を増やす」ことに力を入れていたからです。

大久保利通

遅れている我が国は、
欧米の知識取得が最優先!

大久保利通

若者・子どもたちに、どんどん欧米の知識を
吸収させるのだ!

大久保利通

特に、医学などの
実学は最優先だ!

明治維新となり、学問において欧米と比較して大きく遅れていた日本。

政府主導で「欧米の知識導入」を、日本全国で推進しました。

中でも、西洋医学の知識を有する医師が少なかったため、

大久保利通

医師の養成期間は、
少し短めで良かろう!

短期間での「西洋医学の医師の養成」は最重要事項の一つでした。

若手の医師へ:征韓論争とガラガラになった明治新政府

新教育紀行
征韓論争・明治六年の政変で下野した人物:左上から時計回りに、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣(Wikipedia)

短期間での学びで、現代では「早すぎる」卒業ですが、1874年から猛烈に二年半学んだ後藤新平。

この頃、日本新政府は大いに揺れていました。

江藤新平

岩倉や大久保のやっていることは、
メチャクチャだ!

後藤象二郎

こんな暴論が
まかり通るのか?

征韓論をきっかけに、明治新政府内部で深刻な内部対立が発生しました。

参議・陸軍大将 西郷隆盛(国立国会図書館)

そして、ついに西郷隆盛が激怒を超えて、呆れ返ってしまいました。

西郷隆盛

・・・・・

西郷隆盛

もうよか・・・
一蔵(大久保)どんにお任せしよう・・・

なんと言っても「事実上の初代首相」であった西郷。

その「明治新政府の顔」であった西郷が、新政府の役職を辞職してしまいました。

それに同調して、

江藤新平

私も
去ります!

後藤象二郎

ご勝手に
どうぞ!

後藤象二郎・江藤新平たち有力参議までもが、大勢一斉に辞職してしまいました。

新教育紀行
陸軍少将 桐野利秋(Wikipedia)
桐野利秋

西郷先生に
ついてゆきます!

旧薩摩藩士P

私も
西郷先生と共に薩摩へ!

旧薩摩藩士Q

我らも、大久保なんかに
ついていけんごわす!

さらに、軍の中核を成していた旧薩摩藩士たちが、徒党を組んで一気に辞職してしまいました。

いわば「ガラガラになってしまった」状況の新政府。

西郷隆盛

こんなに大勢、
おいどんと一緒に鹿児島に来てしもうた・・・

本来は、新政府で軍部や政府の中核を占める人物が、多数西郷と一緒に鹿児島にいる状況になりました。

彼らは「立派な大人」というより「有能は人物」たちであり、

西郷隆盛

彼らは、おいどんの
同志だが、どうしたら良いかのう・・・

彼らの生活もあり、遊ばせておくわけには行きませんでした。

新教育紀行
鹿児島県令 大山綱良(Wikipedia)
大山綱良

一蔵(大久保)の
我儘さも困ったもんだのう・・・

この時、廃藩置県で「鹿児島県」となった薩摩藩の県令(知事)となっていた大山綱良。

元は精忠組の一員で、西郷や大久保の同志です。

さらに、西郷・大久保よりも年長者だった大山。

上下関係が厳しかった薩摩藩において、大山は当時の「薩摩閥の顔」の一人でした。

幕末の「薩摩藩士同士の大抗争」であった「寺田屋の変」で刺殺された有馬新七と同年でした。

氏名役職生年
大山綱良鹿児島県令1825年
西郷隆盛陸軍大将・参議1828年
大久保利通内務卿1830年
村田新八宮内大丞1836年
篠原国幹陸軍少将1837年
桐野利秋陸軍少将1839年
明治初期の薩摩出身の有力者

年功序列が厳しかった薩摩において、大山から見れば、西郷ですら、

大山綱良

吉之助(西郷)・・・
どうするかのう・・・

「吉之助」と呼び捨てであり、元々「西郷の弟分」であった大久保は、

大山綱良

一蔵(大久保)は
何を勘違いしとんのかのう・・・

大山にとって「大久保は小僧」にすぎないのでした。

そもそも、維新前の「つい最近まで」は「大久保が敬う立場」であった大山。

今は、鹿児島県令として、薩摩の政治を切り盛りしていました。

大山綱良

そうだ、吉之助よ・・・
お主が彼らを撫育して薩摩藩士を育てるごわす・・・

当時の薩摩藩出身の優れた人物は、ごっそり新政府から薩摩に戻り「」になりました。

西郷隆盛も、本来は全て役職は「」ですが、

大久保利通

吉之助さぁには、
いつか戻ってきて欲しか・・・

大久保の強い意向で「陸軍大将辞任」は新政府が「受理しなかった」のでした。

つまり、辞任後も、「日本における唯一人の陸軍大将」が西郷でした。

とは言っても、事実上は「陸軍大将・参議」の気持ちの西郷。

西郷隆盛

新政府の方針とは
合わないので、戻るつもりはなか・・・

大山綱良

よいわ、吉之助!
一蔵がなんと言おうと、俺が支援しちょる!

西郷隆盛

綱良どん、それは
有り難か!

大山綱良

我が薩摩の軍事組織と
学校を兼ねた組織を作ろう!

大山綱良

俺が全額
出しちょる!

大山は独断で、「新政府に納めるべき金銭」を西郷に渡すことにします。

いわば、「公金横流し」を平然と言う大山。

大山なりに、

大山綱良

おい(私)も
討幕に大きな貢献をしたのだ!

「大いなる自負」がありました。

さらに剣術の達人でもあり、大久保の5歳年上であった大山にとって、

大山綱良

一蔵(大久保)の
意向など、どうでもよか!

新政府内で「泣く子も黙る」大久保利通の存在は、薩摩では「この程度」でした。

西郷隆盛

まあ、一蔵どんは、
一生懸命やっているごわす・・・

この時点では、「義弟」に近い大久保を擁護する西郷。

大山綱良

しかし、一蔵の
やり方は、おい(私)は好かんぞ!

西郷隆盛

とにかく、大山どんの
いう通り、組織を作るごわす!

西郷隆盛

おいどんも、
頂いた賞典を全額使うごわす!

潔癖であった西郷は、維新で頂いた賞典(報奨金)を全て放り出しました。

大山綱良

組織の名前は
どうしようか?

西郷隆盛

まあ、おいどんたちの
組織だから「私学校」で良か!

鹿児島で「私学校」党ともいうべき、軍事組織と学校を兼ねた組織が誕生しました。

大久保利通

これは
困ったな・・・

世の中は、再び不穏な感じになってきました。

この頃、後藤は医師国家試験を目指して、見習医として「実務」につきます。

すると、安場が今度は愛知県に赴任することになります。

後藤新平

安場さんに
ついてゆく!

後藤新平

俺も
愛知県へ!

そして、1876年から愛知県病院(現・名古屋大学医学部附属病院)で三等医として勤務を始めます。

後藤新平

一生懸命
頑張るぞ!

新教育紀行
参議 江藤新平(国立国会図書館)

2年前の1874年には、元参議・江藤新平が「佐賀の乱」を起こして、鎮圧されてしまいました。

江藤新平

・・・・・

下野した西郷隆盛の元には大勢の元・薩摩藩士が集い、明治政府と対立していました。

桐野利秋

西郷先生、大久保は
我ら士族を抹殺するつもりですぞ!

西郷隆盛

一蔵どんや岩倉どんの
やることは、どうも分からん・・・

そして、後藤青年が愛知に赴任した翌1877年に、日本を揺るがす大事件が勃発します。

次回は上記リンクです。

新教育紀行

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