後藤新平の人生で最も辛かった時期〜少年時代に味わった「賊の苦しみ」・「絶対的な存在」だった天皇陛下・徳川慶喜への致命傷となった「朝敵」〜|後藤新平11・少年時代・賊軍

前回は「一気に朝敵となった後藤新平〜名家意識の挫折・血で血を洗った明治維新・闘将乾退助と猛将谷干城・谷干城と西南戦争〜」の話でした。

後藤新平(Wikipedia)
目次

「絶対的な存在」だった天皇陛下

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明治天皇(国立国会図書館)

名藩だった仙台藩は、官軍・明治新政府から「朝敵」と扱われます。

朝敵・・・

「朝敵」というのは、天皇陛下・天に「する者」です。

もちろん、今の世の中ではない「朝敵」という呼称。

現代私たちには、その実感は全く湧きません。

第126代天皇 徳仁(Wikipedia)

今も天皇(陛下)はいらっしゃいますが、憲法上「象徴」とされ政治上の実権を有しません。

様々な考え方がありますが、日本国民から大いなる尊崇を受ける存在です。

戦前までは、天皇(陛下)は現代では想像できないほど「絶大で絶対的な存在」でした。

明治以前は、「朝敵」指定されると生き延びることは極めて難しいのが世の常でした。

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戦国大名 武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

疾 (はや) きこと、風の如く、
徐 (しず) かなること林の如く・・・

侵 (おか) し掠 (かす) めること火の如く、
動かざること山の如し・・・

風林火山
なのだ!

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1569-72年頃の勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

戦国最強の騎馬軍団(諸説あります)を率いたと言われ、甲信地方に大領土を築いた武田信玄。

戦国大名の中でも、極めて人気が高い方です。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信玄入道とは
戦いたくない・・・

急速に勢力を拡大させた織田家は「武田家とは融和路線」を当初貫きました。

それはまた、美濃(岐阜県)と信濃(長野県)で境界を接する武田家にとっても良かったのでした。

ところが、現将軍の足利義昭が信長包囲網を構築すると、

信長は許さん!
ワシが成敗する!

32,000名ほどの大軍団を引き連れて西上作戦を開始した武田信玄でしたが、

残念だ・・・

途中で病死(銃撃など諸説あり)して、武田軍は甲府へ引き返しました。

ふう〜・・・
助かったな・・・

その後、後を継いだ武田勝頼(当主ではない)は、

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戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田軍は
健在なのだ!

猛烈な勢いで領土を拡大し続け、「信玄以上の版図」を築きました。

ところが、1575年の「長篠の戦い」で、織田軍に惨敗した武田軍。

これは、第二次世界大戦の大日本帝国海軍のミッドウェー海戦と同様の「致命傷」となりました。

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1573-75年頃の勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

「長篠」の致命傷を引きずりながらも、戦い続けた武田勝頼でしたが、

そろそろ、武田の
息の根を止める!

1582年に織田家は、大挙して甲信地方へ攻め込みました。

この時の織田家の力をもってすれば、武田家壊滅は困難ではありませんでしたが、

武田の恐ろしさは
余がよく知っている・・・

念には念を
入れるのだ・・・

信長は非常に慎重に武田攻めを計画し、時の正親町天皇を動かして、武田家を「朝敵」指定しました。

武田は
朝敵なのだ!

我が武田が
朝敵・・・?

織田家の方が勢いがあるのに加えて、「朝敵」指定された武田軍は一気に瓦解しました。

こんなに武田が
弱体化していたとは・・・

やはり「朝敵」指定が
効いたようだな・・・

・・・・・

そして、武田勝頼は追い詰められて自刃しました。

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本能寺の変(Wikipedia)

「本能寺の変」勃発の二ヶ月前であり、「あと二ヶ月」粘ったら、武田家は存続したかもしれません。

それほど「超強力な切り札」であり「一貫の終わり」を意味したのが、かつての「朝敵」指定でした。

徳川慶喜への致命傷となった「朝敵」

第15代将軍 徳川慶喜(Wikipedia)

この「朝敵」という存在。

現代では想像できませんが、特に「天皇を尊崇する」立場の人間にとっては、非常に厳しい処分でした。

考えようによっては、「死の宣告」と同等かそれ以上でした。

明治維新は「近代化を進めた薩長が圧勝した」と習います。

フランスの協力を得て、
幕府も近代化だ!

その一面はありますが、現実的には幕府軍もフランスの協力を得て「近代化を猛推進」していたのでした。

やるぞ!
反抗的な連中を倒すのだ!

あっさり徳川幕府が、敗北に至った最大の理由がありました。

それは、将軍および徳川幕府の「朝敵」への指定という「切り札」でした。

優れた頭脳を持ち、当初はヤル気満々だった第15代将軍 徳川慶喜。

徳川幕府の総力を挙げて、
薩長を叩き潰す!

ところが「朝敵」指定を受けて、途端に腰砕けになりました。

私が
朝敵?

そんな
馬鹿な・・・

尊王(尊皇)意識の強い水戸藩出身の徳川慶喜にとって、「朝敵」に指定されたこと。

それは「終わり」を意味しました。

もう
終わりだ・・・

本当は、まだまだ戦う力も戦闘力もあった徳川幕府。

特に海軍力は、新政府軍・薩長勢力を圧倒する力を有していました。

それでも、降伏を決めた「最後の将軍」徳川慶喜。

徳川幕府の幕を
私が引くのだ・・・

後藤新平の人生で最も辛かった時期:少年時代に味わった「賊の苦しみ」

奥羽列藩同盟の変遷(歴史道vpl.15 朝日新聞出版)

朝敵となり、「賊軍」に正式に認定された奥羽列藩同盟に所属していた藩。

その藩に所属していた人間もまた、「朝敵」であり「賊軍」となります。

賊・・・
賊なのか?

私も
賊なのか?

これは、「辛い」なんていうものではなかったでしょう。

「勝てば官軍」という言葉がありますが、まさに明治維新は「そのもの」でした。

「賊」という汚名を着せられた後藤新平は、武士の身分を剥奪されます。

私は武士で
なくなったのか?

のちに、士族解体へと突き進む明治新政府。

戊辰戦争直後は、「まだ江戸時代の続き」であり、士農工商の身分制度が残っていました。

「武士」は、極めて誉の高い「別格の立場」だったのです。

まだ11歳の小学校五年生くらいの後藤少年は、奈落の底に突き落とされます。

こんな
辛いことはない・・・

この後、さまざまな艱難辛苦が待ち受けている後藤の人生。

本人にとっては、

この時が、
人生一番つらかった・・・

と言うことになるほどの「超絶大ショック」を受けたのでした。

次回は上記リンクです。

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