前回は「海援隊の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎〜幕末の土佐藩・稀代の猛将乾退助・板垣退助へ改名した乾・巨大な武田信玄の影響力〜」の話でした。
血で血を洗った明治維新:闘将乾退助と猛将谷干城
後の参議・板垣退助率いる迅衝隊。
この強力な舞台が「新政府軍の増援部隊」として、まだ10歳だった後藤のいる仙台藩にやってきます。
後に「自由民権運動」を掲げた「民衆の代表」のような存在の板垣退助。
新政府で最大の迫力を誇った大久保利通にも引けを取らないほど、大きな迫力を持っていた板垣退助。
うおおお〜
我こそ土佐の乾なり!
うおりゃーっ!
若い頃は、むしろ怖すぎて、普通の人からすると「近寄りたくない」存在だったのでした。
もう一人、重要な人物が迅衝隊にはいました。
後に西南戦争などで活躍する、谷干城も迅衝隊のメンバーでした。
この写真を見ると、谷干城も「ちょっと危ない感じ」で強そうです。
若き日の拳銃を持った谷 干城は、実に迫力があります。
谷干城たちを率いる上司・隊長として、最前線で戦闘指揮をしたのが、若き板垣(乾)だったのでした。
谷干城も、ちょっと怖くて、
強そう・・・
こういう人たちが、
倒幕軍にいたんだね・・・
「世界史上、稀に見る流血が少ない革命」と言われる明治維新。
実際にはこうした強力な武士たちが前線で「血で血を争う」死闘を繰り広げていました。
比較的穏便な明治維新ですが、その裏では多くの方が亡くなり、死に至っていた現実があります。
谷干城と西南戦争
このバリバリ武闘派だった谷 干城。
いわゆる「征韓論争」(明治六年の政変)で、西郷隆盛たちが一斉に下野した頃、薩摩反乱を危惧した大久保利通。
西郷どんが、旧薩摩藩士を率いて
反乱を起こすかもしれぬ・・・
旧薩摩藩士の強さ・強靭さは
私が一番知っている・・・
反乱の際、
まずは熊本城を攻撃するだろう・・・
熊本鎮台には、
屈強の司令官を置かねば・・・
だが、薩摩藩士に対抗できる屈強の人物など、
今の政府内にはいない・・・
いた!!!
谷だ!
谷ならば、薩摩軍と
互角に戦えるだろう・・・
谷しか
いない!
谷よ。
熊本鎮台司令官を任せたい!
お任せを!
熊本鎮台は、誰にも
抜かせませぬ・・・
「目には目を」ということで、「屈強の指揮官・軍隊」には、まずは「屈強の指揮官を」です。
そして、谷が熊本鎮台司令官に就任します。
谷干城少将が司令官、若き児玉源太郎少佐が補佐役となり薩摩出身の樺山資紀中佐も入ります。
そして、「対薩摩」の熊本鎮台の屈強メンバーが誕生したのでした。
一気に朝敵となった後藤新平:名家意識の挫折
善戦するも、官軍に敗れた仙台藩。
我が仙台藩にとどめを刺したのは、
板垣退助だと・・・
板垣・・・
その名を覚えておこう・・・
なんと、領地を没収されてしまい、62万石から28万石へ半分以下にされてしまいます。
あまりの減封に、家臣の中には当時開拓中だった北海道へ向かった者もいます。
我が仙台藩が、朝敵・反乱軍と
なってしまった・・・
名家・名藩だった
のだが・・・
明治維新が成立した1868年に、11歳だった後藤少年。
今の小学校5年生くらいです。
ならば・・・
仕方ない・・・
この俺が、
仙台を立て直してみせる!
11歳にして、後藤少年は政治家を志します。
次回は上記リンクです。