前回は「選択・暗記問題の解き方・コツ・ポイント 3〜丸暗記ではなく暗記問題を「考える」姿勢・歴史の出来事の意味を考える・豊臣秀吉の太閤検地・征夷大将軍と関白の違い・暗記と戦略的解法・大阪と大坂〜」の話でした。
国家の窓口のイメージ:「日本の窓口」長崎・出島と戦いの最前線
開成中学校の2020年の社会第2問です。
次の問8を考えてみてください。
文禄・慶長の役の話です。
今回は「正しいもの」です。
まず、アは全体的な内容は正しいですが、
長崎だったかな?
どこだっけ・・・
このように「知識を思い出そうとする」方が多いかもしれません。
これは長崎ではなく、名護屋ですからxとなります。
名護屋という地名は知らなくて、大丈夫です。
長崎は、江戸時代に出島が「オランダ・ポルトガルとの窓口」になりました。
「オランダ・ポルトガルとの窓口」であった長崎・出島。
交流のあった朝鮮とのなんらかの接点があったでしょう。
仮に「出島の存在」が朝鮮とは無関係であったとしても、朝鮮にとっては「日本の窓口」は気になります。
ここ、出島が
日本とオランダ・ポルトガルの窓口ですか・・・
出島が整備されたのは、江戸時代初期の1634年頃です。
年号は記憶しなくて良いので、「出島が整備されたのは、江戸初期」と頭に入れておきましょう。
江戸初期が、文禄・慶長の役(1592年〜1598年)から、「たいして時間が経過していない」ことに着目しましょう。
文禄・慶長の役:戦国時代末期(1592年〜1598年)
出島の整備:江戸時代初期(1634年〜)
こういう年号を
全て
覚えなければ!
「すべて覚えよう」と考えないことが大事です。
「大体の流れ」を頭に入れておきましょう。
「ちょっと昔に戦場の最前線であったところ」を「外国との窓口」にすること。
それは、対外関係を考えるとあり得ません。
仮に秀吉が長崎から朝鮮に攻め込んでいたら、朝鮮の方からすると、
この間、
秀吉がここから攻め込んできたのか・・・
お、
おのれ・・・
どうしても、不愉快になってしまいます。
そこで、名護屋を知らなくても「長崎ではなさそうだな」と△か✖️です。
イは「明が介入することはなかった」で、これは即✖️です。
歴史的に「なかった」は、立証が非常に困難なことです。
これは
✖️だ!
実際は明が大軍を出してきたため、最前線の加藤清正・小早川隆景たちは、大変な苦闘をしました。
ウは「連行された」はありそうです。
有田焼・薩摩焼の生産に繋がったかは、よくわかりませんが、
全体的な
流れはあってそう・・・
「合ってそうな感じ」なので、ほぼ○です。
エは「日本と朝鮮の国交は回復しなかった」は「しなかった」で即Xでなくても、✖️の可能性が高いです。
「江戸期を通じて回復しなかった」というのは、「江戸期全てで回復しなかった」で全否定なのでXです。
実際は対馬の宗氏を介して、日本と朝鮮は交流していました。
国交に関しては正式な国と国の間の関係ですから、「国交があったか、なかったか」は比較的明確です。
上記の感じになります。
答えはウとなります。
(ウ)
「丸暗記」のデメリット:歴史の流れをイメージ
(ア)にした方もいらっしゃるかもしれません。
これは、長崎という単語を覚えていると、間違えてしまいそうです。
「ただ単語を暗記」していると、間違えてしまうかもしれません。
「丸暗記のデメリット」がこういう時に、出てくることがあります。
ひたすら「単語・年号の丸暗記」をしていると、「長崎」という地名から、
よしっ!
長崎・出島だ!
このように「誤解してして答えて、間違える可能性があります。
「戦争の最前線基地」と「交易の最前線基地」を同一とすることは、ほぼありません。
なぜ、我が国を攻めた
この場所を、あの国との最前線にするんですか?
後になって、矛を交えた外国から文句を言われる可能性があります。
時期が近ければ大抵そういうことは「対外関係に配慮して」行わないことが多いです。
少なくとも「場所」は、変えます。
長崎は出島などの比較的平和なイメージで、文禄・慶長の役は戦争ですから、正反対なイメージです。
歴史を理解し、イメージをすることは記述式だけでなく、選択肢でも役立ちます。
こういう「勘違いしやすい問題」は、問題集や参考書を読んでいても、出てきません。
こういう
問題の出し方をするんだ・・・
早めに問題に取り組んで、「問題の出題のされ方」と「知識を強化」するようにしましょう。
文禄・慶長の役から関ヶ原へ:豊臣政権の致命傷
文禄・慶長の役は、日本にとってデメリットしかなかった戦いとなりました。
この時、最前線で明・朝鮮と死闘を続け、文字通り「死にかけた」加藤清正ら「武断派」の武将たち。
蔚山では、
死にかけた・・・
我が日本へ、
生きて帰れた・・・
本当に、
本当に良かった・・・
対して、後方で軍需物資の輸送等の後方指揮をしていた石田三成ら官僚。
清正殿・・・
朝鮮では、大変な戦で疲れたでしょう・・・
ささっ、
こちらへ、茶など飲みましょう・・・
茶、
茶だと・・・・・?
こいつらは、俺が
生死の間にいた時に、ぬくぬく茶を飲んでいたのか・・・
おい、佐吉(三成の幼名)!
茶などいらん!
と、虎之助(清正の幼名)・・・
そんなに怒らなくても・・・
三成たち「文治派」と、清正ら「武断派」の武将の間に、修復不可能なヒビが入ります。
これは、加藤清正・石田三成が「若い頃から仲間だったから」こそ、発生した「大きな大きなヒビ」でした。
むしろ、もっとドライな関係だったらよかったでしょう。
つまり「秀吉が天下人となる前後に知り合った」なら、傷は浅かったでしょう。
この時のヒビをうまく利用したのが徳川家康でした。
あいつら、元は仲間なのに、
非常に険悪になっているな・・・
ふふふ・・・
清正たちは我が徳川の陣営へ・・・
そして、「豊臣家を分断する」形で、関ヶ原の戦いへと繋がってゆきます。
次回は下記リンクです。