前回は「当時は「端っこ」の田舎だった関東の江戸〜抵抗する家康:駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を死守へ・執着する秀吉・豊臣家より石高が大きい徳川家〜」の話でした。
上方エリアから田舎へ:織田信長と徳川家康
北条家の大領土は、家康殿ほどの実力者で
なければ、到底納められませんぞ!
いかがかな。
100万石アップの大加増ですぞ。
さあっ!
徳川殿!
秀吉の家臣に「ならざるを得なかった」というよる「嫌々なった」家康。
「家臣になった途端」に、秀吉から無理難題を突きつけられました。
想定もしていなかった「すべての領土の没収・移動」でした。
こんなことなら、
猿(秀吉)の家臣になんぞならねばよかった・・・
流石にこの時、家康はかなり落胆したでしょう。
なんと言っても、当時の江戸や関東地方は「単なる田舎」であったのでした。
日本という国家像は、まだ未成立でしたが「日本の中心」は明確に京・山城・大坂だったのでした。
本拠地だった尾張から美濃・近江へと拠点を移動し、最後は大坂を「狙っていた」と言われる信長。
天下人の一歩手前まで一気にのし上がった織田信長でした。
それは、武田信玄や上杉謙信より「地理的に恵まれていた」のも大きなポイントでした。
概ね「上方(かみがた)」と言われる、日本が栄えている地域ばかりいた信長。
尾張・美濃よりは田舎でしたが、三河・遠江・駿河は由緒但しきエリアでした。
さらに、駿河は小京都と言われるほど栄えていた地域でした。
関東か・・・
三河(愛知県)から、
東海に勢力伸ばして・・・
甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を
支配した・・・
織田殿と一緒に、様々な敵と
近畿で戦ってきた・・・
遠い目をして、家康は昔を思い出しました。
晩年は、結構ずる賢いことをする家康。
若き日々は、信長との同盟を忠実に守り抜きました。
家康!
一緒に天下を取ろうぞ!
織田家と徳川家の同盟は表面上は「対等同盟」だったものの、現実には上下関係がありました。
特に、織田家の勢力が固まった1575年頃からは「織田家の重臣」同然だった徳川家康。
とは言っても、「本当の家臣」だった羽柴(豊臣)秀吉よりは、家康の方が「格は上」です。
織田殿と
二人三脚で時代を切り開いてきたが・・・
なんで、
秀吉なんかの家臣に・・・
そして、最後は
関東か・・・
がっかりする家康でした。
家臣たちにも、
申し訳ない・・・
前向きな気持ちで江戸に向かった家康:徳川家の新たなスタート
現代日本の中心である首都圏を持つ関東地方。
当時の関東地方は、家康も徳川家全体が、ガッカリする程度の価値しかなかったのです。
いまさら悔やんでも
仕方ないか・・・
よく働いてきた家臣には、
相応の領土を与えよう!
これまで苦難の連続だった家康は、前向きになります。
徳川家の
新たなスタートだ!
ところで・・・
徳川殿は、
どこに住みますか?
そうだ!
どこを拠点とするか・・・
まあ、
そうですね・・・
ゆっくり
考えましょうか・・・
拠点は、江戸は
いかが?
江戸?
鎌倉に近い小田原、あるいは関東管領だった上杉氏がいた上野は関東地方の「先進地域」です。
当時は江戸は大した街ではなく、漁村レベルであり、当時の江戸城は砦程度のレベルでした。
江戸ですか・・・
そう。
江戸がいいですな!
住み慣れた浜松から、
草ボウボウの江戸か・・・
ここで「待つ」家康は、腹を決めます。
分かりました。
江戸へ向かいます・・・
新しいスタート
ですな!
新しい街づくりするのは、
大変な時間とお金がかかる。
石高は上がっても、
商業は後進地域。
そして、あの強い三河武士と
徳川を引き離せる。
知略と政治力でのし上がったイメージが強い秀吉でしたが、軍事力もピカイチでした。
全てがピカイチだったからこそ、天下人に昇りつめたのでした。
その「ピカイチな軍事力」を「さらにピカイチな軍事力」を持っていた家康が叩き潰しました。
小牧・長久手の戦いでは、
苦汁を飲まされたが・・・
徳川家の抜群の軍事力こそが、秀吉の最後の悩みの種だったのでした。
だが、これで三河武士を徳川から
切り離して、OK!
ほくそ笑む秀吉でした。
江戸へ向かう家康と徳川譜代の家臣たち
織田家で、家康と度々一緒に戦った秀吉。
当時から、徳川軍の「強さ」は飛び抜けていました。
対して、織田家中核の尾張衆(信長・秀吉の故郷)の「弱さ」もまた、飛び抜けていました。
さらに、本能寺の変以降、徳川家と戦った秀吉。
「数で大きく勝る」秀吉は、事実上敗北しました。
小牧・長久手では、苦汁を
飲まされた・・・
これで、徳川家は
大きくパワーダウンする。
何は
ともあれ・・・
新たな
徳川家だ!
気持ちを前向きにして、江戸に向かった家康。
殿、
我らもついてゆきますぞ!
新たな徳川家を
作ろうではありませんか!
三河の小さな大名だった
松平家が250万石ですぞ!
家康の家臣団たちは、一致団結して「新たな領地へ向かう」気持ちを家康に伝えます。
お、
お前たち・・・
「人はお金で集まる」と考えた秀吉に対して、朴訥とした三河武士からなる徳川家。
秀吉の死後に、徳川の世となった大きな理由の一つ。
それは、徳川家康の「家臣と民衆を大事にする」姿勢だったのでした。
そして、意を決して江戸へ向かった家康一行。
よしっ!
江戸へ向かうぞ!
当時の江戸周辺は、現代とは全く違った地形でした。
次回は上記リンクです。