京よりも遥かに劣った田舎の江戸〜秀吉の深謀・北条家の大領土を任せうるただ一人の人物・秀吉の思惑・徳川家を縁ある三河と遠江から引き離す戦略・秀吉と家康の心理戦〜|江戸から東京へ5・戦国時代

前回は「後北条家の領土の行方〜光る秀吉の瞳・欧州の若き覇王伊達政宗の考え・「関東の王」のプライド〜」の話でした。

目次

秀吉の深謀:北条家の大領土を任せうるただ一人の人物

関白 豊臣秀吉(Wikipedia)

ついに、「関東の名門」だった北条家を叩き潰すことを決意した秀吉。

豊臣秀吉

私に逆らう北条家は
叩き潰して見せよう!

戦国大名 北条氏政(Wikipedia)
北条氏政

秀吉っ!
来るなら来い!

北条氏政

我が小田原城は、
武田信玄も上杉謙信も落とせなかった巨大な城だ!

「天下の豊臣軍」を「天下の小田原城」で迎え撃とうと考えた北条氏政。

ところが、豊臣軍は当時の概念から考えると「桁違いの軍勢」を送り込んできました。

北条氏政

豊臣家め・・・・
数万の大軍勢で攻めてくるだろうな・・・

北条家重臣A

大殿(氏政)!
豊臣軍は総勢20万名ほどです!

北条氏政

な、なに?
20万だと!?

時は1590年で、この10年後の関ヶ原の合戦でも東西両軍合わせて15万ほどでした。

それだけ「豊臣軍20万」は異常な兵力だったのでした。

豊臣秀吉

もう、北条は
終わり!

豊臣秀吉

大して、時間は
かかるまい!

もはや「勝った気持ち」満々の秀吉は、

豊臣秀吉

北条家の旧領土は、
誰に任せるか・・・

色々と考えます。

なんと言っても250万石の大大名である北条家。

これほどの大きな領土を誰かに任せるわけにはいかず、分割するのが普通の発想です。

豊臣秀吉

だが、なんと言っても
北条家は歴史がそれなりにある・・・

豊臣秀吉

領民たちも北条家で
まとまっているから、解体するのは一苦労だ・・・

ここで、「大領土を任せる適切な人物」が閃きました。

豊臣秀吉

北条家の旧領土は、
家康に任せよう!

秀吉は「適任の人物」を思いつきました。

当時、北条と戦う前から「豊臣秀吉の天下」は確定していました。

戦国大名 伊達 政宗(Wikipedia)

悩みに悩んだ政宗もまた、秀吉の軍門に降ります。

伊達政宗

どうも、
すみません・・・

信長の跡を継いで、天下統一を成し遂げた秀吉。

ただし、秀吉の死後は、どうなるか分かりません。

豊臣秀吉

信長様の死後、
私は織田家を乗っ取った・・・

本能寺の変で信長が横死し、明智光秀を討った秀吉。

信長の長男・織田信忠も自害していましたが、次男・信雄、三男・信孝がいました。

ところが、秀吉は巧みに彼らを排除して、天下を手にしたのです。

豊臣秀吉

私の
死後・・・

豊臣秀吉

必ず、豊臣を
乗っ取りに来るのが出てくるだろう・・・

豊臣秀吉

豊臣家を潰しにかかる可能性が
あるのは、ただ一人・・・

戦国大名 徳川家康(Wikipedia)
豊臣秀吉

徳川家康
のみだ!

秀吉の思惑:徳川家を縁ある三河と遠江から引き離す戦略

戦国大名 伊達 政宗(Wikipedia)

後に、「信長・秀吉・家康と同等の能力」を有すると評価される伊達政宗。

まだ23歳の伊達政宗の能力は、まだ「未知数」でした。

豊臣秀吉

もう伊達政宗は
黙らせたからOK!

そのため、当時は伊達政宗はそれほど重視されていませんでした。

豊臣秀吉

あとは
家康だけだ・・・

豊臣秀吉

家康を、馴染みのある
地域から移動させよう。

豊臣秀吉

家康の地盤を、
無くしてしまおう。

豊臣秀吉

さすれば、徳川家の力は
大きく減退する!

1585年頃の勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)
豊臣秀吉

ところで、
徳川殿!

徳川家康

はい!
なんでしょう?

豊臣秀吉

徳川殿は、今回大変良く
働いてくれました。

豊臣秀吉

褒美に、北条の領土だった
関東を差し上げましょう!

家康は、秀吉の魂胆を見抜きます。

徳川家康

な、
なんだと?

徳川家康

徳川家を、由来ある
遠江・三河から移動させるつもりだな。

徳川家康

いえいえ・・・
私など、何もしてませんから・・・

実際、徳川軍は北条攻めにおいて、大した働きをしていませんでした。

京よりも遥かに劣った田舎の江戸:秀吉と家康の心理戦

京都が中心・重心の日本列島(新教育紀行)
豊臣秀吉

謙遜
されますな!

豊臣秀吉

徳川殿あって、
我が豊臣の天下が定まったのです。

徳川家康

いえいえ・・・
そんな・・・

徳川家康

秀吉殿の家臣に、
差し上げるのが良いでしょう・・・

豊臣秀吉

徳川殿。
100万石アップですぞ!

豊臣秀吉

150万石から
250万石!

徳川家康

確かに、
石高は大きくアップする・・・

徳川家康

だが、商業は小京都とも言われる
駿河の方が遥かに良い。

徳川家康

しかも、
浜松の方が、港も栄えている・・・

江戸時代には「水の都」と呼ばれる江戸は、港としても後進地域でした。

「港としてのレベル」というより、経済圏が「京都中心」だったのです。

徳川家康

今の領土の方が、
遥かに良い。

徳川家康

というか、私は出身地の三河が、
大好きなのだ!

徳川家康

関東へ移封させられるのは、
なんとしても避けねば!

徳川家康

我が家臣たちにも、
言い訳が立たない!

徳川家康

私ごときに、
もったいないです!

必死に抵抗した家康でした。

当時、北海道は蝦夷と呼ばれ、「遠い存在」でした。(上記リンク)

京・山城や摂津に近い四国の阿波(徳島県)・讃岐(香川県)は、関東よりも進んでいたのです。

京・山城を中心とした「先進地域」から、いわば「圏外」であった関東と江戸。

当時の関東・江戸は、京など上方よりも「遥かに見劣りする地域」だったのでした。

次回は上記リンクです。

新教育紀行

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