前回は「田舎の漁村だった江戸の未来〜豊臣秀吉と徳川家康・「鳴くまで待とう」の家康・若武者伊達政宗の登場〜」の話でした。
欧州の若き覇王・伊達政宗の考え
徳川は、
秀吉に逆らわないのか・・・
この頃、伊達政宗は密かに徳川家康と接触を持ったと思われます。
秀吉には勝てん・・・
我らは立たぬぞ・・・
予想外に家康が「立たない=秀吉に叛逆しない」答えをもらった政宗。
天下に
我が伊達の名を高めて・・・
男子たるもの、
豊臣と堂々と決着をつけたいが・・・
我が伊達と
北条だけでは・・・
秀吉に勝つのは、
無理そうだな・・・
北条家と姻戚関係にある(親戚)家康。
秀吉に
勝つのは無理!
だから、
私はしばらく待つ!
北条殿も諦めて、
秀吉に降参しなさい。
仮に北条殿と伊達が組んでも、
秀吉に勝ち目は全くないですよ。
形式的で合っても「秀吉の家臣」となった徳川家康は、「無用の戦」を避けるように北条氏政を説得しました。
「関東の王」のプライド
当時、北条家は五代目・氏直が当主でしたが、実権は四代目・氏政が握っています。
嫌だ!
秀吉は、元は農民で
ただの成り上がり者ではないか!
北条家は、
関東の王だ!
小田原城は、上杉謙信ですら
落とせなかったのだ!
小田原城に籠城すれば、
大丈夫!
強気の北条家は、家康の仲介を蹴りました。
そして、豊臣家と全面的戦いに発展します。
よかろう!
豊臣の力、
見せてくれる!
怒った秀吉は、20万以上という大軍勢を大動員して、関東地方に攻め込みます。
まさか、
これほどの軍勢とは・・・
まさか、
この北条が・・・・
強気だった北条家は、瞬く間に関東各地で敗北し、秀吉に降伏しました。
最高責任者であった北条氏政は切腹し、当主であった北条氏直は高野山追放となりました。
後北条家の領土の行方:光る秀吉の瞳
北条の領土は、
どうしようかな?
私の子飼いの家臣団に、
あげるか?
それとも、
直轄領にするか?
北条家を倒す前から、秀吉は考え続けます。
関東は、
ちょっと遠い・・・
というか、
遠すぎる・・・
小さな頃から東海地方で過ごした秀吉。
信長に尽くして、近畿地方を中心に活動し、北陸・中国地方へも出陣しましたが、
関東にきたのは、
初めてだ。
当時は、京および京周辺が栄えた先進地域でした。
今の京都府・大阪府・兵庫県・滋賀県・愛知県・岐阜県・静岡県などが商業が盛んで、進んでいたのです。
北条の石高は、
どのくらいだ?
およそ250万石
ほどです。
のちの江戸時代、諸藩で最大だった加賀藩は「加賀百万石」と言われます。
それを遥かに上回る「大領土」だったのが北条家でした。
大した
生産力だが・・・
あまり、
お金を生む地域ではないな。
しかし、当時は、上方(かみがた)である近畿地方よりも、はるかに「田舎」です。
石田三成たちは、
上方(京都周辺)に置きたい。
関東は、
あまり魅力がない。
穀倉地帯だった武蔵(江戸)もある関東地方。
当時、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)なども、大きな生産力がありました。
そして、ビジネス好きな秀吉にとって、「商業後進国」の関東は興味がなかったのです。
現代、世界的大都市・東京は1590年当時、どちらかというと後進地域だったのです。
そうだ!
アイツに
やろう!
秀吉は閃き、その瞳が光りました。
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