前回は「日本の中心の東京と京都〜明治新政府による「新しい日本像」〜」の話でした。
日本の中心東京と江戸:江戸の街づくりと太田道灌
昔の日本の国名は、「山城(京都)中心」の合理的発想で決められていました。
現在の都道府県の名前の多くは、その地域に由来のある名前・以前の藩・藩庁の名前などによります。
今回は「江戸・東京の歴史」の話です。
「東京一局集中」と言われる日本。
関東地方において、横浜のような大都市、様々な魅力的な街があります。
都市としての発展度・重要性においては、東京が群を抜いた存在です。
現在の東京、かつての江戸の街づくりが進むのは、1457年に、太田道灌が江戸城を築いたことがキッカケです。
太田道灌が江戸を選んだ理由。
それは、「江戸が発展しそうだから」ではありませんでした。
当時の勢力図から、
江戸に城を築けば、
敵に睨みをきかせられる!
と判断したからです。
現在、開けた平地で「発展しやすい」土地である東京=江戸は、かつては湿地帯でした。
「平地の湿地帯」の関東平野は、農業には向いていました。
ところが、川の氾濫も多かったため、商業には向いてなく「都市として発展しにくい」場所だったのです。
えっ!
そうだったの?
意外に
感じる・・・
応仁の乱から戦国時代へ:権力失う室町幕府
太田道灌が活躍する末期には、山城(京都)では応仁の乱が勃発し、日本中が戦場になります。
そして、戦国時代が始まります。
当時、室町幕府はもはや大きな力を持っていませんでした。
室町幕府の将軍たちは、すでに力を失い、京都周辺は三好氏たちが握っていたのでした。
そして、第十三代将軍 足利義輝の頃には、「将軍は京都から追い出される」という異常事態が発生しました。
三好・松永に、
京から追い出された・・・
その後、足利義輝はなんとか京都へ戻るも、今度はなんと、
三好、松永が
攻め込んできました!
なんだと・・・
やむを得ん!
戦う!
三好と松永が「足利将軍を殺すために攻め込んでくる」事態に発展しました。
ここで、剣豪だった将軍義輝は、自ら剣を振るって戦いますが、
うぐっ・・・・・
三好・松永の将兵に殺されるに至りました。
昔は田舎だった江戸:鎌倉幕府と江戸
力を失ったとはいえ、日本の首都であり、幕府のある京・山城。
対して、その前政権・鎌倉幕府は鎌倉にありました。
そのため、室町幕府としては「前政権のあった相模(鎌倉)を重視する」必要がありました。
そして、「鎌倉公方」という「関東の王」を作ります。
そして、「鎌倉公方」を補佐する役として、幕府の「管領」に因んで特別に「関東管領」という役職を作ります。
関東管領となった上杉家の本拠地は当時、上野(群馬県)にありました。
そのため、当時の関東の重要都市は「相模(鎌倉)か上野」でした。
そして、当時は武蔵(江戸)は「大して重要ではない」存在だったのです。
そして、戦国時代に入り、ある大名が急速に勢力を伸ばします。
次回は上記リンクです。