前回は「日本の旧国名の覚え方・暗記のコツ 3〜名前の由来・近い国と遠い国・古来から重要な地・近江・太閤検地による各国石高確定・石高1位の近江〜」でした。
京・山城の強い影響:中心の京都
昔の地名における「京・山城を中心とした」強い影響がよく分かります。
明白な影響のある地名を、全て色付けしたのが上の地図です。
昔の日本全体が、見えてきました。
旧国名を大体覚えていらっしゃる方は、この内容を知っておくとより、理解が深まるでしょう。
まだ旧国名があやふやな部分がある方は、「京・山城中心」のイメージを頭に入れましょう。
戦国時代末期の1600年ごろまでは、「日本の中心は明確に京都」だったのです。
その後、江戸にいた徳川家康が徳川幕府を開き、日本の中心・重心が大きく東によりました。
もし、秀吉が家康を「無理矢理、関東・江戸に領土移動を命じた」歴史がなかったら。
その場合、「そもそも家康が天下を取れたか」の問題がありますが「江戸幕府にはならなかった」でしょう。
保守的な家康のこと、幕府を開くとしたら、
自分が生まれ育った、
松平先祖代々の三河か・・・
いやいや、流石に
「東の小京都」と言われた駿河か・・・
現在の愛知県か静岡県に「日本の首都」があったかも知れません。
他の国々の国名の由来:自分なりのイメージ
今の宮崎県、日向は「日に向かう」です。
日向の位置は東は太平洋に開けていて、「東から昇る太陽」を国全体で受けるイメージです。
「東から昇る太陽」は古来から日本が非常に重視していたことです。
聖徳太子が隋の煬帝に、
日出づる
ところの・・・
と書簡を送りました。
今の熊本(隈本)県=肥後は、昔から非常に様々な食物が実る肥沃の地でした。
肥沃の地から「肥」という名前で、「京から遠い」ので肥後です。
豊臣秀吉が天下統一した際に、加藤清正に肥後半国与えましたが、半分で25万石です。
当時、熊本=肥後は一国で50万石ほどあった、非常に生産力が高い国で、日本有数です。
50万石以上の国は近畿圏に多く、近江・美濃・尾張・伊勢・越前、あるいは関東の武蔵です。
そして、清正は豪華壮麗で非常に強固な熊本城を築きました。
城を作るのは技術もさることながら、非常に大きな費用がかかります。
そのコストを出せたのもまた、「肥後が豊かな国だったから」なのです。
日本の中心・重心の移動:京から江戸へ
今の石川県〜福井県の加賀は「加賀前田100万石」です。
今の奈良県、大和は大和朝廷があったと考えられる場所(諸説あります)です。
今の鳥取県、石見は「石見銀山」という世界的に有名な銀山がありました。
これらのことを知りながら、地名と位置を考えると楽しいですし、覚えやすいでしょう。
そして、京=山城の影響を描いた図が上の地図です。
昔は蝦夷地と呼ばれていた北海道。
北海道が、明確に政権内で位置付けがされたのは江戸時代に入ってからです。
1600年頃までの日本は、今より少し小さな領域でした。
「南は九州は鹿児島県まで、北は東北地方の青森県の手前まで」が、概ね「我が国(日本)」でした。
ちょうど、京・山城を中心とする円にすっぽりと入ります。
地図から見ても、「京・山城が日本の中心・重心」であることは合理的だったのです。
そして、秀吉が「徳川の力を削ぐ」ために、家康の領土を関東・江戸は移しました。
その結果が、現代日本の「東京中心の国家」となったのでした。
次回は下記リンクです。