前回は「「合格実績増強部隊」の関東から関西への進撃〜「真剣勝負」の受験・現在と全く異なる35年前の中学受験風景・広い日本と文化の違い〜」の話でした。
入試日程変更を考え始めた関西中学:「関東と足並み揃える」か?

・関西中学:1月の第三土日
・関東中学:1月中旬から開始し、主に2月1日から山場
関東の中学を「関東中学」、関西の中学を「関西中学」と呼ぶと、中学受験日程に大きな違いがあります。

もうすぐ、いよいよ
入試本番だ・・・



僕は、もう
中学受験全部終わった!
近年は関西中学の受験日程が常に先行しており、関西は1月末には「ほとんど完了」が多いです。
・1970年頃〜1990年頃:2月中旬〜下旬(?)
・1991年(?)〜現在:1月の第三土日
ところが、実は筆者が中学受験生だった1990年頃までは、関西中学は「関東より後」でした。
概ね2月中旬〜下旬頃に行われていた関西中学の受験日程は、現在より1ヶ月ほど後で、



もうすぐ、いよいよ
入試本番だ・・・



僕は、もう
中学受験全部終わった!
昔は、関東と関西の中学受験模様は「現在の真逆」でありました。
たかだか35年ほどの間に、一変してしまった「関東と関西の中学受験」の日程の違い。



Japanese(日本人)は、
「変わること」を好まないのかな・・・
海外と比較すると、「変化が少ない」日本においては、「極めて大きな改革」と言えそうです。



Kくんは、第一志望校に合格したから、
ちょっと関西の中学を受けて欲しい・・・



諸経費はこちらで負担するので、
我が塾の合格実績がアップするから、ぜひ・・・
昔は「早々に関東中学が完了」した後で、優秀な中学受験生は、塾の依頼で、



分かりました!
関西の中学受験もします!
「通学する予定が一切ない」学校を「塾の依頼」で受験して、



灘もラ・サールも
合格!



よくやった!
これで、難関校の合格者アップ!
「進学実績増強部隊」が編成されていたことがありました。
現在では、こういうことは「少ない」か「ない」と思われますが、



入学するつもりがないのに、
受験しないで欲しい・・・
当事者の立場で考えると、こう考えたであろう関西中学担当者たちは、



ならば、関東中学と同一日程に
すれば、こういうことは起こらないか・・・



2月中旬〜下旬を中止して、
関東と同一の「2月1日を軸」にするか・・・
関東中学と「足並みを揃える」ことを考えたでしょう。
大学受験では、国立大学の受験日程が「全国で同一(一部の例外あり)」です。
ならば、中学受験も「関東と関西で同一」で「日本全国で一斉が自然」という考え方もあります。
「上方」であり続けた関西中学のプライド:「関東に合わせない」選択


現在では、東京が中心の日本の国家像。
「東京一極集中」と呼ばれることもあり、北海道から沖縄まで含めた日本の中心に位置します。
そして、東京都に対して、京都府・大阪府と呼ばれる京都と大阪は「県とは別格」です。
戦国期までは、関東は「東の端っこにある武士の国」であり、田舎でした。





徳川家は目障りだから、
関東の端っこに追いやろう・・・



徳川殿、褒美に
関東を差し上げましょう!



な、なに!?
関東なんかに移動させられてたまるか!



だが、秀吉に逆らったら、
さらに無理難題を押し付けてくるかも・・・
戦国期末期、天下統一を果たした豊臣秀吉によって、



やむを得ん・・・
浜松から江戸か・・・
「無理やり」現在の首都圏に「移動させられた」のが家康でした。
「秀吉と家康の戦い」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



豊臣家を滅亡させ、
正式に徳川の時代だ!
秀吉の死後、長寿を保った家康は1615年に豊臣家を滅亡させ、徳川幕府が「正式発足」しました。
1603年に征夷大将軍となり、徳川幕府を開設した家康でしたが、



日本の中心は京・大坂で、
江戸は、物流も悪い・・・
まだまだ「何事も京・大坂(当時は大坂と表記)中心」でした。
国家像は、そう簡単に変わるはずがなく、「日本国のボス」は京にいる天皇であり続けました。





今年から、大名は毎年
江戸に参勤交代せよ!
第三代将軍 徳川家光によって、1635年に開始した参勤交代の主目的は「大名統制」でした。
大名の妻は「江戸常駐」であり、大名は毎年、江戸に大勢の家臣を引き連れて向かうので、



毎年、江戸に行く
莫大な経費が負担過ぎる・・・
旅は意外とお金がかかり、移動・宿泊などで、お金がどんどん飛んでゆきました。



ふっふっふ・・・
大名の妻を人質にして、お金を使わせる・・・



これで、大名たちは、
徳川に反乱を起こす力を持てない・・・
参勤交代は、このような「徳川家ファースト」の思想が思い切り出ていた政策でした。
この参勤交代には、他の側面があり、



これで常に、江戸に大名たちの視線が
向かわざるを得ない・・・



政治も経済も物流も
全て江戸が中心になってゆくだろう・・・



我が国の中心は、
京・大坂ではなく江戸なのだ!
徳川家は「日本の中心」を「京・大坂ではなく江戸に転換させたかった」思惑があったでしょう。
そして、江戸時代において、確かに政治・経済の中心は江戸に移動しましたが、



まあ、江戸は政治と経済の
中心で良いが・・・



長きに渡り、我が国の中心であった
京・大坂は「別格」であり、「上方」なのだ・・・
昔からずっと「上方(かみがた)」と呼ばれ続けた京・大坂は、強いプライドを持っていました。



そもそも、天子様(天皇)が
京にいる以上・・・



大樹様(徳川将軍)が
何を言おうと、京が中心・・・
政治力は徳川家が握っており「政治力がない」天皇でしたが、「天皇の影響力」は絶大でした。





徳川幕府を倒して、
新たな国家をつくる!
そして、明治維新となり、中心人物だった大久保は、



新たな首都は江戸から
移動する!



それには、大坂が
良いのでは・・・
一度は「大坂(当時は大阪を大坂と表記)を新首都に」と考えた大久保でしたが、思考を翻して、



やはり、政治機能は江戸が
良いから、江戸にしよう・・・



江戸は「東の京」である「東京」となって
生まれ変わるのだ!



そして、天皇には東京に動座頂き、
東京を全ての中心とする!
「東京」と名前が変わった江戸は、ようやく「正式に日本の中心」となりました。
つまり、1868年頃までは「京・大坂が上方・中心」でありました。
この観点から考えると、「東京中心の歴史」は高々150年ほどで短いです。



関西中学の入試日程を
変えるが・・・



「関東に合わせる」必要は
ないな・・・
「もともと上方」の京・大阪は、ある種の強いプライドを持っています。



そもそも、かつては、こちらが「上方」であり、
「上」だったのだ・・・
現在も京都と大阪は「極めて近い距離」にあり、「二つしかない府が近い位置にある」状況です。



我が関西は、
関西独自の文化と歴史がある・・・



関東とは「別」なのだから、
入試日程も「別」だ・・・
こう考えたであろう、関西中学の教員は「関東中学入試とは別日程」を堅持したのでしょう。
そして、現在の「関東中学と関西中学の中学入試日程」に変化したと考えます。