前回は「日本人の戦争観と神風特別攻撃隊〜時事問題など受験の基礎知識・戦後日本と「近い過去」の戦前・現代も生きるkamikaze・神風特別攻撃隊の初めての出撃とその後〜」の話でした。
現代の視点から見た「神風特別攻撃隊の存在」:当時の将兵の責務と思い
今回は、青少年少女・子どもたちに知って欲しい神風特別攻撃隊の基礎知識の話です。
中学受験・高校受験・大学受験においても、予備知識と知っておくと良いでしょう。
日本で最初の神風特別攻撃隊であった敷島隊。
現代、神風特別攻撃隊は「かみかぜとくべつこうげきたい」と呼びます。
実は、神風特別攻撃隊が出撃した当時は「かみかぜ」ではなく「しんぷう」と呼んでいた説があります。
この「読み方」には諸説あり、当時の陸海軍の関係者の証言も異なります。
分かりやすい「かみかぜ」に対して、「しんぷう」の方が高尚なイメージがあるかもしれません。
「特攻の生みの親」と呼ばれる(諸説あり)大西瀧治郎 第一航空艦隊司令長官。
もはや・・・
もはや普通の戦い方では、米軍には勝てん・・・
これしかない、
これしかないのだ・・・
真珠湾奇襲攻撃の「攻撃計画立案の中心人物」であった大西瀧治郎。
大西が第一航空艦隊司令長官に就任した1944年10月、大日本帝国(日本)は敗色が濃い状況でした。
「海軍の星」とされた連合艦隊の中心人物・山本長官は、既に前年1943年4月18日に戦死していました。
山本長官の死は「米軍の暗号解読により、最前線視察中に撃墜された」結果の戦死でした。
すでに米軍によって、大日本帝国軍の暗号解読が進み、兵力も物量も圧倒的な差がついていました。
実際、当時の大日本帝国海軍と米海軍の戦いの状況を見れば、
これは、
大日本帝国海軍が圧倒的に不利だ・・・
何をどうやっても
「米軍に勝つ」ことは不可能だ・・・
「頭が良い」とか「戦略・戦術の能力がある」ということは関係なく、正常な頭脳を持っていれば、
これは、絶対に、
100%日本は敗北する・・・
「100%日本は敗北」は明白な状況でした。
この状況の中、最前線の将兵たちは、
なんとしてでも
米軍に勝つのだ!
「いかに米軍に勝つか」を考え続け、懸命に戦っていました。
現代の発想ならば、
どうやっても
勝ち目がない戦いならば・・・
負けを認めて、
降伏するしかないのでは・・・
「降伏するしかない」と考えるのが「普通」でしょう。
ところが、当時の日本陸海軍の将兵には「負けを認める」という発想はありませんでした。
我が軍が圧倒的に劣勢だが、
なんとか、なんとか米軍に勝つのだ・・・
陸海軍の将兵には「敗北を認める」という「発想自体が存在しなかった」のが現実でした。
どうすれば、米海軍に
勝つことが出来るのか・・・
これは「統率の外道」だが、
これしか、これしか考えようがないのだ・・・
「現代の視点」と「当時の視点」が全く異なり、考え方によっては「正反対」とも言える状況もあります。
現代と当時で「全く状況が異なる」中で、「当事者たちの責務・思い」を理解することは難しいことです。
そして、極めて困難であり「事実上不可能」であるとも言えるでしょう。
彼ら最前線で死闘を繰り返していた「大日本帝国陸海軍将兵の心中を正確に推し量る」ことは。
大和魂を具現化した神風特別攻撃隊の名称:歴史を力に転化
乾坤一擲をはるかに超えた「考え得る究極の戦い」を実施することになった大日本帝国陸海軍。
その先鞭をつけることになったのが、海軍でした。
我が大日本帝国の
魂を具現化する名称をつけるのだ・・・
特攻を実施する軍としては、「特攻隊の名称」は極めて重要でした。
江戸期中期に「古事記伝」を著し、国学を大きく進めた本居宣長。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花・・・
という大和魂を詠じた、本居の古歌がありました。
この古歌から、最初の神風特別攻撃隊の名称が採用されました。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花・・・
古歌の中の「敷島」「大和」「朝日」「山桜」を採用して、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が誕生しました。
「大和魂を発露」である特攻隊であれば、一番隊の名称は「大和隊」とも考えられます。
当時、古歌の順序に従って、最初に突入することになったのが「敷島隊」でした。
最初の特攻隊出撃以後も、日本の歴史などから名称を集め、様々な名称の特攻隊が誕生しました。
それまでの日本の陸海軍の航空隊には、番号が振られていました。
若き将兵たちを
特別攻撃隊として出撃させる・・・
確実に死ぬ作戦には、
特別の名称をつけてやらねばならん・・・
いわば「歴史を力に転化する」発想でした。
このように「歴史上の名称をつける」発想は日本らしいと言えます。
特攻の戦果と極めて甚大な損害を受けた米軍
いよいよ、最初の神風特別攻撃隊が発進する時期が到来しました。
1944年10月17日に大西がマニラに第一航空艦隊司令長官内定して到着後、3日後でした。
神風特別攻撃隊として出撃する若者たちにとっては「上官からの命令」とは言え、わずか3日。
3日で神風特別攻撃隊の出撃が決定し、実際に若者達が出撃しました。
当時を描く様々な書籍・映画などでは「自ら志願」という描き方もあり、諸説あります。
原則としては「軍・上官からの命令」であり、若き隊員たちは「勇んで出撃した」と伝えられます。
当時、最前線で戦っていた将兵たちは、「米軍の圧倒的な強さ」を肌身に感じていました。
これは最早
体当たり攻撃しかないのでは・・・
それ以外に、何をどうやっても
米軍には勝てない・・・
こう感じていた将兵も「多かった」と伝えられています。(諸説あり)
最初の神風特別攻撃隊・敷島隊を率いた隊長は、関行男大尉でした。
この年(1944年)5月に結婚したばかりの関行男。
日本も
おしまいだよ・・・
僕のような優秀な
パイロットを殺すなんて・・・
僕なら体当たりせずとも、
敵を倒せる・・・
敵空母に大きな爆弾を
命中させる自信がある・・・
随行する報道員に話した、というよりも「嘆いた」説もあります。
海兵卒業期 | 名前 | 役職 | |
29 | 米内光政 | 海軍大臣 | |
31 | 及川古志郎 | 軍令部総長 | |
33 | 豊田副武 | 連合艦隊司令長官 | |
40 | 大西瀧治郎 | 第一航空艦隊司令長官 | |
70 | 関行男 | 敷島隊隊長 |
1921年に生まれ、当時23歳だった関大尉。
特攻隊を指揮する大西長官は、関よりも30歳上でした。
海軍を指揮する軍令部総長・海軍大臣・連合艦隊司令長官たちは、さらに7歳以上年上でした。
この戦況を変えられるのは、
大臣でも大将でも軍令部総長でもない・・・
それは若い君たちのような純真で
気力に満ちた人たちである!
諸君はすでに
神である・・・
頼む、
頼むぞ・・・
「出撃すれば必ず死ぬ」
この極めて苛烈な戦い・・・
国民に代わって頼む・・・
しっかりやってくれ!
そして、既に意を決していた大西は、内心こう思っていたでしょう。
諸君だけを行かせることは
絶対にしない!
俺も後で
必ず、必ず・・・
そして、関大尉率いる神風特別攻撃隊・敷島隊は出撃しました。
それでは
長官!
行って
参ります!
敷島隊は米護衛空母「セント・ロー」を撃沈する大戦果を挙げました。
陸海軍 | 特別攻撃隊出撃者数 | ||
陸軍 | 1,689人 | ||
海軍 | 4,156人 | ||
合計 | 5,845人 |
その後、神風特別攻撃隊の出撃は連日のように続き、終戦・敗戦までに5,845名の方が出撃しました。
陸海軍 | 航空特攻による戦死者数 | ||
陸軍 | 1,417人 | ||
海軍 | 2,531人 | ||
合計 | 3,948人 |
そして、陸海軍合わせて3,948名の方が戦死・散華しました。
「必ず戦死する」特攻において、戦死した方の人数は出撃した人数より少なく、70%ほどです。
それは「決死の思いで出撃しても、敵と遭遇できなかった」などが理由です。
この神風特別攻撃隊は、米軍に甚大な損害・ダメージを与えました。
神風特別攻撃隊と最前線で戦った指揮官であったチェスター・ニミッツは、こう言っています。
Kamikazeによって、
我が米軍は甚大な被害を受けた・・・
その信じられない攻撃を目の当たりにして、
精神に異常をきたした米兵も多数出た・・・
戦後日本国内の見方よりも「攻撃を受けた」米軍の方が、その被害・損害を大きく考えています。
現代の感覚で、神風特別攻撃隊に対して適切に評価することは極めて難しいです。
その中、神風特別攻撃隊に関して、ある程度の事実と基礎知識を知っておくこと。
それは、日本人として極めて大事な姿勢でしょう。