前回は「時事問題が分かるようになるコツ〜多岐にわたる時事問題と理解すべきポイント・他の分野と関連づける・SDGsと時事問題・世界と日本の時事問題・広がる戦争と神風特別攻撃隊〜」の話でした。
日本人の戦争観と神風特別攻撃隊:時事問題など受験の基礎知識
第二次世界大戦末期に、大日本帝国の若い軍人たちが決行した神風特別攻撃隊。
ほとんど全ての日本人が、この事実を知っています。
一方で、この神風特別攻撃隊の話が日常会話やニュースメディアで出ることは少ないです。
今回は神風特別攻撃隊に関して、小学生から高校生が知っておくべき事の話です。
受験生にとっては、特攻隊に関する知識が問われることはありませんが、
以下の文章(神風特別攻撃隊も含む)に
関する文章を読んで、問に答えなさい。
「文章題」の形式の出題は考えられます。
実際に、国語で特攻隊員と話す文章が武蔵中学で出題されました。(上記リンク)
こういう問題は「特攻隊に関する知識の暗記」は必要なく、求められていません。
一方で、「ある程度知っているとイメージしやすい」でしょう。
また、時事問題で「過去の日本」と関係付ける文章が出題され、特攻隊に関する記載がある時、
神風特別攻撃隊の
ことは少し知っている・・・
少し特攻隊の
記事を読んだことがある・・・
「少し知っている」と感じられれば、より自信を持って答えられるでしょう。
一般的には「遥か遠い存在」であるかのように感じられる神風特別攻撃隊・特攻隊。
例えば、日常会話で、
神風特別攻撃隊の
話なんだけど・・・
「神風特別攻撃隊を是とする」方向で話そうものなら、
えっ、なにこの人?
ちょっと危険な方?
ひょっとしたら、
右翼なのかな?
「右翼と誤解を受ける」感じになりかねない状況です。
日本国内のニュースメディアなどで、
神風
特別攻撃隊が・・・
「神風特別攻撃隊のこと」が話題になる時があります。
それは「神風特別攻撃隊の事実を振り返る」ドキュメンタリーなどに限定される傾向があります。
日本人にとっては、遥か遠い、遠い存在のような神風特別攻撃隊。
戦前から戦後にかけて、米国・GHQの政策によって「別の国家に変わった」ほど様変わりした日本。
国家の名称が「大日本帝国」から「日本」に変わっただけではありません。
俺がJapan(日本)を
根底から変えてみせる!
なんだ!
この憲法は!
こんな軍国主義的な
憲法は廃止!
俺たちが、民主的な
憲法を作ってやる!
そして、事実上「GHQが突貫工事の如く急いで作成した」のが、現行の日本国憲法です。
戦後日本と「近い過去」の戦前:現代も生きるkamikaze
憲法という「国家の根幹」が外国である戦勝国・米国によって、作られました。
ある意味、国家が米国に「完全に作り替えられた」のが日本でした。
大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
公布 | 1889年(戦前・明治時代) | 1946年(戦後・昭和時代) |
主権 | 天皇 | 国民 |
天皇 | 神聖不可侵の元首 | 日本国民統合の象徴 |
戦争 | 天皇が陸海軍を率いる | 戦争を放棄 |
軍隊 | 国民に兵役義務 | 交戦権否定 |
「全てが変わった」のが戦前から戦後の日本でした。(上記リンク)
そもそも、「大日本帝国」から「日本国」へと国家の名称が大きく変わりました。
日本国憲法が公布された1946年は、現在の2024年の78年前。
神風特別攻撃隊が実際に出撃して戦った1944年から1945年は、現在の2024年の79〜80年前。
全然「大昔」ではなく「近い過去」なのです。
この時期に生まれていた方の多くが、まだまだご存命です。
ところが、多くの日本人が「神風特別攻撃隊=特攻隊」の歴史から目を背けている状況です。
あたかも「そういう(神風特別攻撃隊の)歴史はなかった」の如く。
場合によっては、
特攻隊の歴史は
悪だ!
特攻隊に対して、特に国内では批判的視線・意見も多いのが実情です。
実は、外国では「神風特別攻撃隊=kamikaze」はかなり有名です。
そして、日常のニュースメディアでも「普通に登場する」傾向があります。
世界最大の通信社の一つであるロイター通信などでも、比較的よく出てくる言葉です。
最近の2023年11月25日、12月15日に”Kamikaze Attack”の言葉が記事に登場しました。
“Kamikaze Attack”は「自爆攻撃するドローン」を説明する言葉です。
自動運転か遠隔操作でドローンに爆弾をセットして、敵軍を攻撃するドローン。
これが世界では、
まるで、このドローンは
“Kamikaze Attack”だ・・・
自爆するから、
“Kamikaze”Droneが分かりやすい・・・
こう考えられ、”Kamikaze”Droneと言われています。
日本のニュースメディアで、
「神風のようなドローン」
です・・・
あるいは、
「まるで特攻隊のようなドローン」
です・・・
「神風のようだ」と説明することは「ない」です。
カラーに特徴があり、ある指向性があるネットのメディアでは、このような説明はあるかもしれません。
ところが、地上波テレビのメディアでは、このように「神風特別攻撃隊」という言葉は、
かつて、第二次世界大戦末期に
日本から神風特別攻撃隊の若者たちが・・・
「歴史ドキュメンタリー」など以外では「使われない」です。
まるで、
ニュースなどで神風や特攻隊、神風特別攻撃隊
という言葉は使ってはならない・・・
報道規制があるかのようで、実際にある程度「規制がある」のでしょう。
神風特別攻撃隊の初めての出撃とその後
1941年に開始した対米戦は、陸海軍ともに緒戦は大日本帝国(以下、日本)が押していました。
ところが、翌1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍が米海軍に「壊滅的大敗」を喫しました。
そして、戦況が一気に悪化しました。(上記リンク)
その後、陸海軍ともに米軍に押し続けられ、1943年頃には日本軍の敗色が出てきました。
翌1944年になると「日本軍の敗色濃厚」となる中、世界最強国・米軍相手に戦い続けた前線の将兵たち。
1944年10月に、フィリピン・レイテ沖で海軍を主体とした日米の大決戦が起きようとしていました。
もはや・・・
もはや普通の戦い方では、米軍には勝てん・・・
この時、米海軍の戦力は日本海軍の10倍以上であり、圧倒的な戦力差がついていました。
なにをどうやっても、もはや米軍に勝つことは「不可能」でした。
我が軍の航空隊の戦力をもって
米海軍を叩くには・・・
これしかない、
これしかないのだ・・・
「特攻の生みの親」と呼ばれる(諸説あり)大西瀧治郎 第一航空艦隊司令長官。
山口多聞とは海兵同期で、非常に親しい仲でした。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空本部総務部長 |
40 | 宇垣 纏 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 軍令部第一部長 |
真珠湾奇襲攻撃の事実上の総括を山本長官が命じたのが、大西瀧治郎でした。
「大胆にして細心」と言われ、頭脳明晰で智勇兼備の将軍・提督であった大西。
250kgの爆弾を
米軍の艦艇に多数命中させるには・・・
爆弾を抱いて、
米軍の艦船に突っ込むしか方法はない・・・
戦況が悪化するにつれて、内部で極秘協議されていた「特攻隊の方針」が実行される時がきました。
だが・・・
これは「統率の外道」だ・・・
しかし・・・
やむを・・・やむを得ない・・・
後世から見れば「異常な発想」とも言える神風特別攻撃隊。
当時の日本陸海軍の将兵にとっては、「これしかない」だったのでした。
このレイテの戦いで、
なんとか米軍に大きなダメージを与えたい・・・
なんとしても、
米軍に痛撃を与えなければ・・・
そして、最初の神風特別攻撃隊・敷島隊が1944年10月25日に出撃します。
諸君はすでに
神である・・・
我が大日本帝国のために、
頼む・・・
こうして、決別の水盃を交わした大西長官と敷島隊の隊員。
行って
参ります!
頼む、
頼むぞ・・・
「いつ戦死するかわからない」極限状況である戦争。
それに対して、「もう少し後に確実に戦死する」神風特別攻撃隊の隊員たちの心境。
その心境・心の内は、それぞれの遺書に綴られました。
敷島隊の特攻によって、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈しました。
護衛空母は比較的小規模の空母ですが、少人数の敷島隊が果たした戦果は「絶大」でした。
よくぞ・・・
よくぞやってくれたな・・・
大西長官たちの予想を上回る戦果・結果となった「最初の神風特別攻撃隊の攻撃」。
若い隊員たちには
申し訳ないが・・・
この特攻で、
戦局を挽回するしかない・・・
他に方法は
ないのだ・・・
「最初の神風特別攻撃隊」が大きな戦果を上げたため、特攻が続くことになりました。
とにかく、特攻して
米軍を倒すしかない・・・
最初は、特例中の特例であった神風特別攻撃隊。
その後、精神としては神風特別攻撃隊でありながら、攻撃手段としては神風通常攻撃隊となりました。
特攻することは「特別のこと」ではなく「通常のこと」となり、大勢の日本の若者が出撃しました。
行って
参ります!
行って
参ります!
陸海軍 | 航空特攻による戦死者数 | ||
陸軍 | 1,417人 | ||
海軍 | 2,531人 | ||
合計 | 3,948人 |
1945年10月25日から敗戦の日である翌1945年8月15日までの10ヶ月ほどの間、特攻は続きました。
そして、陸海軍3,948名の方が航空機による特攻によって戦死(散華)したのでした。
次回は上記リンクです。