前回は「社会のまとめと難問・記述問題の考え方〜日本史と世界史の流れ・「知らない」でも解ける考え方・歴史の流れと背景から推測・日本における左と右・人物の相関関係がつくる歴史〜」の話でした。
社会のまとめと難問・記述問題の考え方・書き方:使節団の目的
我が国では250年近く続いた江戸時代は明治維新によって、新たな国家体制へと移行しました。
そして、1868年を明治元年として明治時代が始まりました。
明治新政府を率いた人物たちにとって、江戸時代末期にアメリカ、イギリスなどの欧米諸国と締結した条約に我が国にとって不利な不平等な項目が含まれていたことから、これらの不平等条約の改正は最優先課題でした。
そして、1871年に不平等条約改正のために、岩倉具視を正使とするいわゆる「岩倉使節団」を欧米に派遣しました。(写真1)
1年9ヶ月に及ぶ長期の一大国家事業となった本使節団に関して、下記の問いに答えて下さい。
(1)写真1のA,B,Cの人物を漢字で答えて下さい。
(2)写真1のDの人物は、公家出身の岩倉具視を除き、A,B,Cの人物と大きく異なる特徴があります。その特徴を答えて下さい。
(3)写真の人物たちの表情に関して、当時の日本の世界における立場など、歴史的背景を含めて気づいたことを簡潔に述べてください。
岩倉使節団のメンバーたちは、欧米諸国に対する配慮から、衣服を欧米の外交様式に合わせ、伝統的な和服を来たのは正使の岩倉具視だけでした。
この衣服は明治新政府による急速な欧化推進策の一つでもありましたが、和服との違いが際立ち、多少の違和感が感じられます。
(4)写真の人物たちの服装に関して「違和感」を含めて特徴や気づいたことを簡潔に述べてください。
(5)岩倉使節団のメンバーの多くが、衣服を欧米諸国の様式に合わせたことは我が国の正式な使節団の服装として適していたかどうか、あなたの意見を含めて簡潔に述べてください。
前回は、写真のA,B,Cの人物を「知らなくても解ける」考え方をご紹介しました。
そもそもこの「岩倉使節団の目的」は何だったのでしょうか。
1.江戸時代に締結した(させられた)不平等条約改正の(予備)交渉
2.条約締結中の先進国の国家元首に国書を提出
3.西洋の先進文明の実地調査
この「目的」をテーマとする問題も考えられるので、復習しておきましょう。
最も大事な目的が上の1でありましたが、実態としては「2が最重要目的」だったでしょう。
幕末から明治維新にかけて、様々な諸外国と折衝して「明治新政府」は成立しました。
中でも、薩摩藩と結びつきが非常に強かった大英帝国とは極めて密に連絡をとっていました。
Hello!
Japan(日本)の皆さん!
幕末の日本というと、現代の影響もあって「米国中心」と捉えがちですが実態は異なります。
米国内で、巨大な内戦である南北戦争が勃発したためです。
1861年から1865年まで続いた大内戦の中、米国としては、
Japan(日本)やAsia(アジア)のことに
構っている余裕はない・・・
まあ、国内で手一杯で、
太平洋の向こうは、どうでもいいな・・・
「自国のことで手一杯」が本音でした。
そして、大英帝国などに「新政府を承認」してもらいましたが、
Japanは国家元首が
Tokugawaから変わって新体制になったらしい・・・
元々Emperorはいたようだが、Meiji Emperorが
新たな元首か?
この新しい体制というのは、
本当にちゃんとしているのか?
海外から見れば、当時明らかな「後進国」であった日本に対する視線はこんな感じでした。
そこで、岩倉や大久保たちは、
徳川から新体制となって、
我らが政府であることを、各国に正式に知ってもらわねば!
フランスは徳川を支援していたし、
我ら新政府に対して、世界から承認してもらわねばな!
彼らからすれば、
私たちが
新たな新政府の大幹部です!
「私たちが新政府大幹部」をハッキリと伝えるために「欧米先進国に挨拶に行きたかった」のです。
・公家:岩倉具視
・薩摩:西郷隆盛、大久保利通
・長州:木戸孝允
そして、明治維新の超大物である岩倉・西郷・大久保・木戸の「4名のうち3名」が出かけました。
この米国や欧州へ派遣された遣欧使節団は、莫大な費用をかけて「政府の幹部の大多数」が洋行しました。
1868年に新たな明治時代を迎えた明治新政府。
まずは、条約改正に向けて大勢が船で、最初に米国向けて出発しました。
メンバーを見ると「明治新政府の半分」が一気に抜けている感じです。
普通に考えると「国内も大事」なので、上の超大物は「4名中2名」が妥当な感じもします。
まっ、国内は吉之助さぁが
いれば問題なか!
国内も大事だが、徳川から我らに
変わったことをハッキリ海外に認識してもらう方が重要だ!
鎖国をしていて「内向き」だった日本から「一気に外向き」になりました。
そして、「海外とのつながり」を重視しました。
その結果として、新政府の大幹部が一気に抜けた大使節団となったのでした。
明治新政府の五大勢力:公家と薩長土肥
この岩倉使節団と共に、多数の留学生たちが日本を出発して行きました。
その中には津田梅子、山川捨松(上記リンク)らがいました。
答えを見れば、いずれも超有名人ですが、「C.伊藤博文」は少し難しいです。
A.木戸孝允
B.大久保利通
C.伊藤博文
今回は(2)に関して、Dの人物に関して考えます。
問題文では「公家出身の岩倉具視を除き、A,B,Cの人物と大きく異なる特徴」と記載されています。
Dの人物は佐賀藩出身の山口尚芳です。
山口は細かい知識なので、人物名が問われることは中学受験ではないでしょう。
写真の人物を全員見てみましょう。
正使:岩倉具視
副使:大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳
「薩長土肥」と言われる明治維新ですが、政権が「徳川から天皇(朝廷)へ」の中、
公家では、
私がトップだ!
公家の力は大きいです。
1852年生まれの明治天皇は、明治元年の1868年では16歳です。
16歳では、十歳に国家元首となるのは無理でした。
「天皇中心の政府」であり、天皇は「普通の人は近づけない」存在でありました。
そのため、岩倉具視や三条実美などの公家集団の力が非常に重要でした。
天皇側:公家
一般側:薩摩・長州・土佐・肥前
天皇側に対して「一般側」という言葉が適切かどうか微妙ですが、イメージとしては「一般人」です。
そして、岩倉使節団では、
まずは岩倉さんと木戸さんと私。
伊藤は役立つし、いいでしょう。
そうですね。
伊藤が良いでしょう。
この頃、長州出身の伊藤博文は薩摩出身の大久保と仲良くし始めていました。
何はともあれ、
我が長州から2人だ!
長州軍団を大事にしていた木戸は、内心喜んでいたでしょう。
メインは5人程度で、あと
一人ですね・・・
土佐か肥前だな。
どっちでも良いが・・・
ここで、佐賀藩の山口に決まったのは、人間関係や思惑もあるでしょう。
江藤新平や大隈重信を輩出した佐賀藩は、当時ピカイチの優れた頭脳派を出していました。
「葉隠」に強い影響を受けていた佐賀藩士は「極めて勉強熱心」だったのです。
これらの経緯から、(2)の答えは下記のような例になります。
・薩長土肥が主軸の明治新政府において、Dの人物はただ一人薩長以外の出身の人物であること。
・明治新政府において最も影響力が強かった旧薩摩藩、旧長州藩出身者でないこと。
新たな新政府を率いる者たちの心の中:世界との駆け引きへの緊張感
(3)で「表情に関して、当時の日本の世界における立場など、歴史的背景を含めて気づいたこと」です。
写真を見ると、皆さん一様に緊張している雰囲気が分かります。
これは、当時の写真撮影が現代のように「パシャ」っと撮影できないことも影響しています。
実は当時の写真撮影は、露光などのため「しばらく顔を動かせない」ことがありました。
そのことを加味しても、かなり緊張気味の面々です。
幕末から命懸けで活動してきた人物たちは、岩倉以外は元々武士出身で「動かない」ことは慣れています。
特に、かつては剣術の達人でもあった木戸孝允は、
「微動だにしない」くらいなことは
何でもないが・・・
「このくらい余裕」だったでしょう。
この緊張感には、「新興国日本を自分たちが率いることに対する緊張感」があるでしょう。
そして、討幕時には「徳川幕府のやり方に文句を言っていれば良かった」のですが、
いよいよ、おいどん達が
正式に各国の国家元首達と顔を合わせて、折衝するのか・・・
今までの長州でやってきたスケールとは
根本的に異なるな・・・
全く別次元のスケールであり、「新興国」という「相手から下に見られている」状況でした。
こういう状況の中、彼らの表情をまとめてみましょう。
・新たに日本全国の国家を率いる立場で海外と折衝することになり、大いに緊張している
・当時、新興国の一つであり欧米側から格下に見られていた為、どのように振る舞うか深く思案して、緊張している様子が見受けられる
・幕末、徳川幕府の官僚が成し遂げていた海外との正式な外交や折衝を、自分たちが正式な代表となって執り行うことに、大いなる責任感を感じている
大久保や木戸は幕末から、パークス英国公使達と様々な折衝をしてきました。
当時は薩摩や長州の代表者としてであり、新政府樹立時には「一気に変わった新政府」を担っていました。
日本国内で折衝するのと、こちらから外国に出かけて行って「外国で外交する」のは次元が異なります。
これらの時代背景を理解して、書いてみると良いでしょう。
次回は下記リンクです。