前回は「記述・考える問題対策 1〜薩摩同一町内出身の威人たち・自分の考えをハッキリ書く・末から明治の薩摩出身の将星たち〜」の話でした。
明治新政府による学校教育確立:藩校と松下村塾や適塾
直前期の12月〜2月頃は、中学受験生〜大学受験生たちは、
今日も
一日頑張ろう!
出来るだけ
総復習して、学力を上げよう!
毎日一生懸命勉強しているでしょう。
ここで、寒い冬の時期でもあるので、体調第一に最後まで頑張ってゆきましょう。
今回は、受験に馴染み深い学校の話です。
江戸時代に百花繚乱のように、様々な藩校・私塾がありました。
これらの藩校・私塾以外にも、無数の寺子屋があり、江戸時代の教育が支えられていました。
明治時代に、
とにかく、西洋から学び、
西洋に追いつくのだ!
「西洋に追いつけ」と強力に推進された教育。
版籍奉還・廃藩置県等の「国家の姿を変える」ことと同程度に重要なことでした。
明治維新成立後、まずは「日本の国家の根幹」を変えることを最優先しました。
教育体制を
しっかり確立するのだ!
その結果、学校令が1886年に発布されました。
この時には、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・岩倉具視たちは亡くなっています。
明治維新成立後20年ほど掛かりました。
その間、廃藩置県・廃刀令など「江戸時代から国家機構を抜本的に変える」過程がありました。
おいどんが考えていた
新たな国家は違か!
西南戦争などの内戦も多数ありました。
そして、学校令によって小学校から大学が設立されました。
小学校から大学を「一気に設立」することは、教員や建物の手配が非常に大変です。
そのため。これらの学校の起源に藩校・私塾・寺子屋があると考えられます。
なんでも「0から作る」のは大変で、「既存の教育機関を活用する」ことは非常に合理的でした。
私は適塾を設立して、
医師を志す若者を育てたい・・・
そして、冒頭の方々がそれぞれの藩校・私塾の設立・運営に大きく関わりました。
「松下村塾といえば吉田松陰」ですが、吉田松陰は松下村塾設立者ではありません。
松下村塾設立者は、吉田松陰の叔父の玉木文之進です。
おそらく、吉田松陰は、
私塾を作って、
子弟に教えたい・・・
しかし、最初から私塾を
作るのは大変だ・・・
叔父さんが作った
松下村塾を使わせてください。
ちょうど「近い親戚が塾を持っていた」ので、使わせてもらったのでしょう。
自分が「学校の名称をつける」:自分の考えを書いてみる姿勢
学校というと、上の写真のような「教室で教えられる」形式が定着しています。
江戸時代の教育は、実に「多様だった」と考えられます。
藩校の方が、「藩の公的機関」であるので「格としては上だった」と考えられます。
一方で、「カラーが強い」私塾の勢いも大変なものでした。
下記のような問題を少し考えてみましょう。
1.上記の各地の江戸時代の藩校・私塾から一つ選び、知っていることを述べてください。
2.薩摩藩の藩校「造士館」という名前は、なぜこのような名前になったのか、あなたの意見を含め述べて下さい。
3.もし、あなたが新しい藩校・私塾を設立する場合、どのような名称にしますか。
漢字2~4文字で名称を考え、その名称への思いを述べて下さい。
江戸時代にあった藩校・私塾と同じ名称でも良いですが、ない名称の方が望ましいです。
1は松下村塾、適塾を選ぶ方が多いでしょう。
適塾を選ぶ方もいるでしょう。
2は諸説ありますが、「士(もののふ)を造る館」です。
いかにも薩摩藩らしい名称です。
a.「士(もののふ)を造る館」が、語源であると考えられる。
b.「武士らしくあること」を諸藩の中でも際立って大事にしていた薩摩藩の考えが表れている。
c.武士の数が諸藩と比較して際立って多かった薩摩藩は、武士を養成することが最優先だった。
以上のようなことが考えられます。
3に関しては、こういう問題が出題される可能性は少ないです。
あなたが新しい藩校・私塾を
設立する場合・・・
どんな名称を
つけますか?
可能性は少ないですが、「自分らしさ」を表現するには良いと思います。
色々と考えてみましょう。
大事なことは、こういう「自分らしさを表現する」記述問題は、ぜひやるようにしましょう。
これは、ちょっと
分からない・・・
「名称をつける」って
難しい・・・
仮にこういう問題が出たら、「難しい」とは考えずに、
僕の考えを
書けば良いんだ!
私は
こう考える!
このように積極的に書いてみましょう。
そういう「強い積極性」こそが合格の扉を開くでしょう。
次回は下記リンクです。