前回は「西郷隆盛の大いなる飛躍〜広い日本を肌で知る体験・島津斉彬の特異な先進性:他の藩主とは全くズレていた強き意志・橋本左内との出会い・藩主と藩士の立場〜」の話でした。
個性的な多士済々の人物を輩出した適塾:緒方洪庵の卓越した功績
越前藩士
橋本左内です。
薩摩藩士
西郷吉之助ごわす。
越前藩主・松平春嶽の懐刀として活躍していた、橋本左内。
緒方洪庵が設立した適塾出身の医師であった橋本左内。
若い頃から極めて優れた大秀才でした。
橋本が15歳の時に著した「啓発録」という書籍があります。
「啓発録」を読むと「15歳が書いた」とはとても思えないレベルの書籍です。
優れていただけでなく、非常に個性的であった医師・緒方洪庵。
適塾からは、多くの極めて優れた人物が出ています。
この中で最も有名なのは、福沢諭吉でしょうか。
これだけ多士済済の人物を輩出した適塾の存在は、非常に大きなものです。
福沢諭吉の「福翁自伝」を読むと、適塾での生活が描かれていて、非常に興味深いです。
後に、長州藩の陸軍を率いて幕末維新の仕上げの戦争を取り仕切った大村益次郎(村田蔵六)。
私はオランダ語を理解し、
医学だけでなく、最先端の西洋学問が理解できます・・・
医師であり、さらに討幕陸軍総司令官ともいうべき立場になった大村の功績は抜群です。
そして、優れた頭脳の中でも最も優れていたと思われる橋本左内。
後に安政の大獄で処刑されてしまいますが、それは「際立ちすぎる頭脳」を持っていた証でもあります。
藩のカラーの人物へ与える強い影響:薩長土肥の人物像
当時、一気に世界が広がり、薩摩以外の人物との出会いが一気に増えた西郷。
強烈なカラーを持つ薩摩藩出身の薩摩藩士たちは、どうしても「一種の共通点」が出ます。
その共通点は人格を作る骨格となり、その人物を作り、未来を作ってゆきます。
当時、最も多くの人物が出た薩長土肥。
この四つの藩から出た人物たちは、非常に個性的です。
それぞれ「同じ藩のカラー」が染み付いているように感じます。
土佐は板垣退助・谷干城がいます。
板垣と谷には、大きな共通点があります。
肥前の江藤新平・大隈重信たちに関しても、改めてご紹介します。
基本的に生まれてからずっと強いカラーの中で育ち、社会人になった当時。
藩の特色・カラーは非常に強い影響を与えました。
それは、現代においても同様で、やはり世界各国の方には一定の特徴があります。
欧米から見ると「外見が似ている」アジア人でも、日本人・中国人・韓国人では全然違います。
独特のカラーを持つ私立中学は、子どもにとっては「当時の藩」に相当する影響を持つのでしょう。
「士は士を知る」人を見る目を磨いた西郷:橋本左内との邂逅
島津斉彬の命令で、西郷が越前藩主 松平慶永(春嶽)に使いに行った際、
ああ、
西郷よ。
詳しくは、
橋本左内と相談してくれ。
越前藩主 松平慶永から紹介を受けた、色白の若者であった橋本左内。
西郷と橋本。
お互い名士であり、
お互い話をしてゆく中で、
むむ・・・
この方は大層な人物だ。
むむ・・・
出来るごわすな。
「士は士を知る」が如く、お互い共鳴してゆきます。
わずか15歳で「啓発録」という書籍を著した大秀才の橋本左内。
実は最初の頃、西郷は色白の秀才である橋本に対して、
頭は
良さそうだが・・・
国の方向性を決めるほどの
人物か?
と最初は、あまり高く評価しませんでした。
それは、西郷の方が6歳上(学年では7歳上)だったこともあるでしょう。
27歳の西郷から見て、21歳の橋本はまだ、
ただの若造では
ないか・・・
です。
氏名 | 生年 |
島津斉彬 | 1809年 |
松平慶永(春嶽) | 1828年 |
西郷隆盛 | 1828年 |
大久保利通 | 1830年 |
橋本左内 | 1834年 |
ところが、橋本と話をして行く内に、
この人は
立派だ!
と認識を改め、6歳も歳下の橋本左内を非常に尊敬します。
これはなかなか出来ることではありません。
おいどんは、
橋本どんを尊敬し申す!
「士は士を知る」という大きな体験をした西郷。
この体験は、この後の西郷の人物への接し方にも大きな影響を与えたでしょう。
西郷ほどの人物でも、「人を見る目」というのは難しいところがあります。
こうして、様々な人との邂逅が西郷を磨き上げ、大きくしてゆきました。
次回は上記リンクです。