前回は「大いに燃える山口多聞〜淵田美津雄の体調不良と飛龍の友永丈一新隊長・満を持しての連合艦隊出撃・第一航空艦隊と戦艦大和・米軍の動き・慎重極めたニミッツ長官の指示〜」の話でした。
攻撃の原動力の若手将校たち:淵田美津雄と源田実
真珠湾以降、攻撃隊の指揮をとり「攻撃隊の要」だった淵田中佐。
海兵52期の淵田は40期山口・41期草鹿の11歳程下で、最前線にはうってつけの経験者でした。
この
大事な時に・・・
本当に
申し訳ない・・・
もう一人、淵田と同期に重要人物がいます。
淵田と同期52期の源田実は「航空隊のプロ」と言われ、第一航空参謀でした。
同期で仲良しだった源田と淵田。
淵田。
航空隊の指揮は任せた!
源田は、
作戦指揮を頼む!
南雲長官を支える草鹿参謀長の下で、作戦の実質指揮を執る源田参謀。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 |
40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 |
52 | 源田 実 | 第一航空参謀 |
52 | 淵田 美津雄 | 第一航空艦隊飛行長 |
機動部隊は「南雲艦隊」ではなく、
「源田艦隊」だろ・・・
「源田艦隊」と言われるほど、非常に大きな権限を持っていました。
まさに当時の日本海軍の優れた将兵が集結した戦いでした。
連戦に大きく疲労していた将兵たち:不吉な相次ぐ体調不良
まさに、機動部隊の「若手の両輪」と言える淵田中佐と源田中佐。
ミッドウェー作戦開始の頃に、疲労が蓄積して虫垂炎となった淵田中佐。
この
大事な時に・・・
淵田中佐は、手術と療養のために攻撃隊に参加できません。
実は、淵田だけではなく、源田もまた体調を壊していました。
熱があって、
立っているのも辛い・・・
具体的病名は不明ですが、とにかく「疲労が蓄積していた」のでしょう。
「真珠湾」以来半年ほどの間、太平洋からインド洋まで広大な地域で戦いを続けていたのです。
しかし、この大事な時、
私がいなければ・・・
源田は倒れそうになりながらも、作戦指揮に加わります。
この最重要作戦の開始後に、「若手の両輪」の不調。
源田と
淵田が体調不良だと・・・
空母機動部隊にとって、致命的な事態でした。
こ、
これは・・・
非常に
まずい事態だ・・・
やはり、
皆疲れているのだ。
日米の科学技術の圧倒的な差:航空隊と電話できた米国の科学力
日本よりはるかに科学技術が進んでいた米国。
当時の日本軍では考えられないような最新鋭設備を、米軍はすでに活用していました。
Japanの艦隊を
逐次捕捉せよ!
当時の米海軍では、空母などの艦隊と航空隊が「直接電話で話す」ほど技術が進んでいたのです。
おい、Jack!
調子はどうだ!
バッチリです。
いま、敵艦を索敵中!
対して、艦隊と航空隊が「電話で話すなど考えられない」日本は、電気信号に頼っていました。
無線で電信(電気信号)を
送ったが・・・
無事に
届いているのだろうか・・・
国力の違いだけでなく、科学技術の差も非常に大きな日米でした。
「科学立国」と言われてきた日本。
現代でも、米国との差は非常に大きいのかもしれません。
次回は上記リンクです。