前回は「会津藩主・松平容保と「地獄への片道切符」〜安政の大獄・逆上した井伊直弼・平和から血塗られた歴史への転換期〜」の話でした。
首都を守る会津:京都守護職
江戸時代までの日本の首都は、京都でした。
徳川将軍のいる江戸は政治の中心であるものの、天皇のいる京都が中心だったのです。
首都・京都は、徳川幕府にとっても別格に大事な都市です。
そして、特別に「京都所司代」という「京都を治める長官」を設置してきました。
この京都所司代は、現代の京都府知事というレベルではなく、京都を統括する極めて大事な職でした。
当時の日本は、武士ならば「刀を帯びる」のは当然のことで、日常生活に日本刀がありました。
当時の欧米的発想から見れば、
Samuraiといえども、
日常で凶器を持ち歩いているのは・・・
流石に
怖い・・・
あの大きな日本刀を腰にぶら下げている方々が、街の中を普通に歩いていました。
この状況は、1876年に明治新政府が発令した廃刀令まで続きました。
これだけでも、現代の感覚からすれば十分に怖いですが、
天誅!
テンチュー!
幕末には「尊皇攘夷派の武士」と名乗る連中が、次々に暗殺を実行していました。
京都では「連日殺人が行われている」ような異常事態なり、人々は恐怖に陥りました。
「殺人が正義」と考える殺人鬼たちが、大きな顔をしていた異常な世界だったのでした。
この異常事態を危惧したのが、将軍後見職となった徳川慶喜でした。
もはや、警察では
手に負えん。
軍隊を
置くしかない!
この京都を治める、新設の「京都府軍事長官」として、松平容保は京都守護職に就任します。
大変な役目だが、
やるしかない・・・
京からはるか遠い会津の地を領していた会津藩。
藩祖・保科正之は、第三代将軍・徳川家光の弟という特別な家柄でした。
徳川御三家のような「別格の存在」ではないものの、家康の旧姓「松平」を関する会津藩主。
徳川期を通じて、会津藩は「特別な存在」であり続けました。
新撰組設立:農民から幕臣になった近藤勇
山川捨松が2歳の1862年に、松平容保は藩兵1,000を率いて上洛します。
犯罪が
多すぎて・・・
1,000名では
全然足りない・・・
正規兵1,000名は、かなりの軍事力ですが、広い京都を守るには戦力不足です。
そこで、幕府は奇策に出ます。
武士が足りないなら・・・
「武士を作る」しかないな・・・
なんと、出自によらず「強いものなら、幕臣に取り立てる」という策です。
ここで、誕生したのが新撰組です。
剣術の達人であった、近藤勇は農民の出でした。
俺は農民の出だが、
武士になりたい!
徳川幕府が自ら設置していた「士農工商」という身分制度を、自ら破壊することになります。
俺は、
強いぞ!
現代の感覚からすると、この「身分制度の破壊」は当然のことです。
ところが、これは当時は「幕府の政策を幕府自らが否定する」ことになりました。
藩士よりも幕臣は格が上で、直々の旗本は「直参」と呼ばれて各藩の藩主と同格でした。
いわば、「幕臣になる」ことは石高・収入の違いはあるとしても、格は「藩主になる」ことでした。
そのため、幕臣になることは非常に難しいことでした。
腕に覚えがあるものは参れ!
幕臣にしてあげよう!
それだけ、幕府は弱体化していたのです。
荒くれ者が大勢集まる新撰組では、何度も内輪揉めをします。
血で血を争う
日々だったが・・・
俺たちは俺たちなりの理想を持って、
徳川幕府に仕えよう!
最終的に、会津藩の配下として幕末を戦うことになった新撰組。
誠実な松平容保の「一途な気持ち」と地獄へ通ずる一本道
新撰組を加えた会津藩が、京都に睨みをきかせるも治安は不安定なままです。
我が京が
物騒なのは困る・・・
殺人事件が続発するという事態は、容易に収まりません。
この中、慶喜は、
会津を中心にして、
徳川を立て直そう!
と考え、松平容保を陸軍総裁職・軍事総裁職に任命します。
「京都軍事長官」から、いわば「徳川幕府軍事長官」へ格上げになった容保。
私が京都を
守って見せよう!
ところが、これはどう考えても「一つの藩」である会津藩が背負うレベルのことではありませんでした。
辛い・・・
辛いがなんとかしよう・・・
誠実な人柄の松平容保は、懸命に京都周辺の治安維持に努めました。
松平容保よ。
京を任せたぞ!
誠実な人柄により、時の孝明天皇からも大いに信頼されます。
ははっ!
孝明天皇から全幅の信頼を受けた容保。
なんとしてでも、
京都の治安を守る!
自らの使命に燃えます。
この幕末の当時、
尊王攘夷!
のスローガンの元、
天誅!
と日本刀を振りかざす「単なる殺人犯」たちが大勢登場しました。
現在の日本では考えられないほど「極めて危険な治安状態」にあった当時の京都。
この、
天誅!
天誅!
と勇ましい掛け声ばかり上げて、「尊王(尊皇)攘夷」の漢字も書けなかったであろう殺人犯たち。
そして、「尊王攘夷」の「尊王」あるいは「攘夷」の本来の意味もわからずに、
ソンノー!
ジョーイ!
と叫び続けていた殺人鬼が大勢いた中、
私が天皇陛下・朝廷、
そして京を守り抜く・・・
と考えていた松平容保・会津藩主。
いくら、会津藩士という正規軍隊を有しているといえども、日本刀で殺人を続ける連中に対しては、
我ら会津藩士は、
死と隣り合わせだのう・・・
実は当時最も「尊王」の意思を持っていたのは、松平容保だったのでしょう。
一般的には「尊王」と言われますが、日本では「王」は不在なので帝に対する「尊皇」になります。
そして、この強い「尊王(尊皇)」の気持ちを持っていた松平容保。
松平容保と
会津藩士たちには、感謝しているぞ!
この後に何度も天皇直々の感状(感謝状)をもらうことになった松平容保。
有難いことです・・・
我らが、視力を尽くして・・・
京を安寧の
地にして見せます・・・
この松平容保「一途な気持ち」は、自身及び会津藩を地獄へ引きずりこむことになります。
いわば、極めて誠実であったからこそ「地獄へ通ずる一本道」を歩み始めた松平容保及び会津藩の人々。
山川捨松が、まだ4歳の時でした。
世の中が、
大丈夫かしら・・・
そろそろ物心ついてきた年頃に、当時の自分の国であった会津藩。
・・・・・
その会津藩は、急速な勢いで地獄へ一直線に向かっていました。
次回は上記リンクです。