前回は「日本人女性の道を切り拓いた山川捨松〜改名して米国留学した強き信念・日本の理系大学の歪な空間・幕末の会津の苦難の道〜」の話でした。
豊臣家と徳川家の相剋
幕末の1860年、会津に生まれた山川捨松(咲子)。
彼女の生き様は、当時生まれた会津藩と江戸時代に関して、理解を深める必要があります。
250年以上の長きにわたって、比較的平穏な時代を作り上げた江戸時代。
長きにわたる戦国の時代は、
私の代で終わらせるのだ・・・
本能寺の変当時は、「織田信長の家臣」に近い存在であった徳川家康。
織田殿と一緒に、
各地を転戦して、我が徳川の家を大きくした・・・
「本能寺の変」後は、重臣とはいえ「本当の信長の家臣」であった羽柴(豊臣)秀吉の家臣にならざるを得ませんでした。
そして、秀吉の
家臣とならざるを得なかった・・・
さらに、祖先代々の三河周辺から
移動させられて、ここ江戸に来た・・・
関ヶ原の合戦で、徳川家康率いる東軍が大勝利を納め、「徳川家の時代」が到来しました。
ところが、
征夷大将軍となり、
江戸を中心とする政治機構をつくったが・・・
日本の中心は京のままであり
京から近い大坂の豊臣の力もまだまだ強い・・・
関ヶ原の合戦によって、「豊臣の時代から一気に徳川の時代へ」となるはずもありませんでした。
そもそも、まだ「形式的には秀吉の子であり後継者」の豊臣秀頼の家臣であった家康。
なんとか、平和な時代に
したい・・・
もう、合戦や殺し合いは
止めにしよう・・・
こう家康が考えるも、秀頼の母 淀君は、
この国の主人は
秀頼よ!
「豊臣家の時代」にひたすら固執する淀君が、「豊臣から徳川」への時代を阻止し続けました。
平和が続いた江戸時代:家康と三浦按針
僕が日本の主人みたい
だけど・・・
1593年生まれの豊臣秀頼は、関ヶ原の合戦の時は8歳(数え、以下同様)でした。
現代で言えば、1600年の関ヶ原の合戦の際には、秀頼は7歳の小学校1年生です。
つまり、「小学校1年生が日本の帝王」という意味不明の状況が続いていました。
これがせめて、秀頼が17歳くらいで「高校生が日本の帝王」ならば、
我らが補佐すれば、
良いのかどうか・・・
と周囲も考えますが、小学生ではどうにもなりません。
対して、1542年生まれの徳川家康は、関ヶ原の合戦の1600年に59歳を迎えました。
そして、1603年に「徳川の時代」を演出するために62歳で征夷大将軍になりました。
これからは、
徳川の世ですよ!
この1603年に秀頼は、やっと10歳で小学校4年生です。
当時は「小学校」という組織はありませんでしたが、もし現代の小学校があったなら、
小学校4年生がトップの国家では
仕方ないだろう・・・
こう家康は考えたでしょう。
ところが、美貌とプライドの高さではピカイチだった淀君は、
私は、織田信長の
妹・市の娘で、秀吉の妻!
家康は
秀頼の家臣!
これは困る・・・
徳川の時代にならない・・・
悩む家康ですが、「秀吉の家臣」から「秀頼の家臣」と代替わりした今、
征夷大将軍と言っても、
「秀頼の家臣」か・・・
「天皇と征夷大将軍」という二頭体制が源頼朝以来続いてきた日本の国家の姿。
外国から見れば、
結局、Emperor(天皇)と
Shogun(将軍)のどっちが偉いの?
よく分からない事態が続いていた日本でした。
当時、盛況であったスペインでは「王が一番偉い」のであり「王が最終意思決定者」でした。
この「分かりにくい日本」において、家康は懸命に「国の姿」を模索しました。
大英帝国(英国)出身のウィリアム・アダムス(三浦按針)を優遇して、よく話を聞きました。
これからは、外国との
交渉を上手くしなければ、我が国は危うい・・・
織田殿は、南蛮であるスペインやポルトガルと
うまく交渉して、世界に目を向けていた・・・
ところが、「信長の姪」である淀君には、「世界は見えず、見えているのは秀頼」でした。
この国のものは、
全て秀頼のもの!
天皇と将軍がいるだけでも、外国人には分かりにくいのに、さらに、
なあ、TokugawaとToyotomiって
一体、どうなっているの?
どうやら、Tokugawaが「Japanの王」で
権力を持っているらしい・・・
でも、またToyotomiの時代になるかも
しれないのか?
さあな、JapanにはEmperorも
いるしな・・・
天皇と徳川と豊臣の三者がいる、なんとも言えない状況が続きました。
このような雰囲気の中、高齢であった家康は平和を模索し続けましたが、
形式的だけでも、豊臣は徳川の
家臣になってくれんか・・・
徳川は武家であり、豊臣は
高級公家として生き残るのはどうでしょう?
秀頼は「家康の家臣」なんて
お断り!
全く
逆じゃないの!
やむを、やむを得んな・・・
もう合戦はしたくなかったが・・・
江戸時代創成期の1614年・1615年には、豊臣家との大規模な合戦である「大坂冬の陣・夏の陣」が起こります。
こんな
はずでは・・・
豊臣秀頼と淀君がこの世から消えて、とうとう「徳川の時代」が本格的にやってきたのでした。
これからは元号は元和!
元和偃武だ!
150年近く続いた戦乱の時代にピリオドを打った家康は、象徴として元号改正を朝廷に申請しました。
そして、「元和偃武」と言うスローガンを掲げてのでした。
・新たな「平和な時代」元和のスローガン
・「武器を偃(ふ)せて、武器庫に収納」して、今後合戦は行わない意思表示
これで、
これで良い・・・
近代日本の骨格を完成させた家康は、大坂の陣翌年の1616年に75歳で亡くなりました。
徳川家にとって初代=神君であった家康没後には、島原の乱が1637年に勃発します。
その後は一揆などがあったものの、大規模な戦争・戦いは、ほとんどありませんでした。
「戦争の歴史」とさえ言える欧州などに比較すると、異常なほど平和が続いた時代でした。
そして、会津藩は「徳川一門」として、御三家と同格か準じる立場で江戸時代を生きてきました。
時代のうねりに巻き込まれた山川捨松:世界列強の日本への視線
ところが、1800年頃からロシア・米国・英国などが、日本に次々に接触してきます。
中でも、領土的野心を剥き出しにしてきたロシア。
対する江戸幕府は悩みます。
悩んでも、主に海軍力はロシアよりはるかに劣る日本。
幕府首脳部は必死に交渉するも、「明らかに弱い」日本は押され続けます。
我がUSと
条約結びましょう!
嫌なら、
Edoを砲撃します!
ペリー提督及び米国は、「超上から目線」で日本を見ていたのでした。
「対等」と考えている国に対して、
おいっ!
砲撃するぞ!
と恫喝することは、外交儀礼上「絶対ない」ことなのです。
1853年には米国からペリー率いる艦隊がやってきて、翌年には日米和親条約締結となります。
1858年には強硬姿勢を貫くハリスに対して、幕府は日米修好通商条約を半強制的に締結させられます。
我がUSと
条約結ぶと、Japanにもメリットあるぞ!
この時、幕府は岩瀬忠震などの非常に優れた官僚が懸命に交渉を続けました。
後の世に「無能な江戸幕府」と形容されるも、当時の幕府首脳には、かなり優秀な人物が大勢いました。
のちに明治維新を主導する大久保利通。
特に、維新政府において、超強気を押し通した大久保。
仮に大久保が「幕府の担当者」だったとしても、似たような結果になったでしょう。
ちょうどこの頃、誕生した山川捨松(咲子)。
少し世が
平和でなくなってきたわ・・・
現代、ウクライナに戦争を仕掛けたロシア。
当時、今ほど強国ではなかった日本に対するロシアの姿勢は、大体想像できるでしょう。
そして、日本が恐怖感を感じざるをえない事態が、世界で起きていたのです。
次回は上記リンクです。