前回は「完全包囲されて燃える後藤新平〜絶大だった帝大(東大)の影響力・別格の「帝大」という存在・相馬事件の大衝撃・戦国時代からの名家相馬家のパワー」の話でした。
徳川幕府の国家運営と「士農工商」の身分秩序:超強力だった殿様の力
1883年から1895年の間に、後藤新平が巻き込まれた相馬事件。
当時、内務省厚生局長という高級官僚であった後藤新平でしたが、相手が強力すぎる存在でした。
いわば「相手が悪すぎた」状況であり、どうにもならない状況です。
敵は旧大名で
華族の相馬家か・・・
旧大名で華族である相馬家を完全に敵に回した後藤。
後藤さんは、華族の相馬家を
敵に回しているらしいよ・・・
えっ!華族を敵に?
それは、無理筋ってもんだろう・・・
幕末の1857年に生まれた後藤新平にとって、明治維新は11歳(現代の数え方)でした。
現代の小学校5年生の頃まで「封建制度」のもとで生きてきた後藤にとっては、
昔は大名といえば、
絶対的な存在であった・・・
「大名」という存在を肌身で理解していました。
江戸時代においては、徳川将軍は「雲の上の存在」であり、大老・老中(総理大臣格)もまた高貴な存在でした。
そして、明治維新によって、江戸時代に強く日本社会を支配していた「階級」が大きく消えました。
「藩の外に出る」ことすら、大名の許可がなければ「原則として不可能」であった江戸時代。
「士農工商」の身分制度が厳格にありました。
・武士:約7%
・町人:約5%
・百姓:約85%
・その他:約3%
勉強して立身出世することは、ある程度可能でしたが「身分は一生変わらない」が基本でした。
この中で、大多数である約85%を占めた百姓に重い税をかけて、
百姓は「生かさず、殺さず」で、
たっぷり税を取るのだ・・・
と徳川幕府や諸大名は考えて、「農民への税金」で国家が成立していた時代でした。
徳川幕府の「国家のコントロール」の手法は明確であり、
だが、それでは百姓が
嫌になってしまうだろうから・・・
士農工商の身分制度で、
百姓・農民は二番目にしてあげよう・・・
と、農民を「世の中で二番手の存在に祭り上げる」ことで、不満のガス抜きを図りました。
農民たちにとっては、
俺たち、世間では「二番手」
らしいけどさ・・・
とにかく、殿様たちには
俺たちは絶対服従しかないし・・・
「二番目」だった百姓・農民でしたが、「一番目」の武士との階級は隔絶していました。
まして、大名・藩主は「殿様」であり、完全に「別格」の存在でした。
西郷は
島流しだ!
封建制度における大名・殿様の権力は絶大、というよりも絶対的でした。
あの西郷隆盛といえども、
おいどんは、
また島流しごわすか・・・
事実上の藩主であった島津久光の逆鱗に触れただけで、島流しになりました。(上記リンク)
藩内の人間を島流しにしようと、切腹させようと「殿様の一存」だった異常な時代でもありました。
特権階級と死闘続けた後藤新平:廃藩置県と身分制度の大きな変革
この中、1868年の明治維新に至りました。
徳川幕府を
ぶっ潰したごわす!
これからは
新たな世が始まるのだ!
日本の国家の姿を
一新するのだ!
まだ、戊辰戦争が続く中、明治新政府は「五箇条の御誓文」を公布しました。
新たな世となるのだから、
その基軸となるコンセプトは早急に発表すべきだ!
確かに!
徳川時代とは全然違うことを示すのだ!
まだまだ内戦状態の中、越前福井藩出身の由利公正(三岡八郎)が「素案」をまとめました。
これからの時代は、
広く会議を開き、みんなで話し合うのだ!
そして、木戸自らが加筆して中心となり、「五箇条の御誓文」まとめました。
この頃、長州藩総帥であり、絶大な政治力を発揮した木戸。
桂小五郎から木戸孝允へ変名しました。
私は桂小五郎から
木戸孝允となり、新政府を率いよう!
鳥羽・伏見の戦いが1868年1月であった当時、「五箇条の御誓文」公布は1868年4月でした。
「五箇条の御誓文」は非常に短い文章ですが、「新政府の基本コンセプト」が全て込められていました。
大急ぎで
「五箇条の御誓文」を作成・公布するのだ!
鳥羽・伏見の戦いから「高々3ヶ月」という超短期の間に、「五箇条の御誓文」は作成・公布されました。
この「非常に短い期間」から、新政府の意気込みが感じられます。
そして、明治維新になって「四民平等」が推進されて、身分制度は一気に変革しました。
・華族・士族:約5.7%
・平民:約93.4%
・神官など:約0.9%
農民と町民は「まとめて平民」となり、旧大名は華族、武士は士族となりました。
「四民平等」を謳い、一気に大きく変革した身分制度でした。
ところが、現代と比較すると「身分の差」は現実として、まだまだありました。
実際、華族や士族と平民では全然違う立場でした。
これらの身分秩序の間には、「格が違う」を超えた「立場の大きな違い」がありました。
「平民が華族に歯向かう」のは「事実上不可能である空気」があったのが現実でした。(上記リンク)
その中、華族である相馬家のお家騒動に自ら飛び込み、特権階級と死闘を続けることになった後藤。
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特権階級である華族に加えて、当時はただ一つだった帝大・衆議院議長をも完全に敵に回した後藤。
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状況は「かなり悪い」というよりも「究極的に最悪に近い」状況でした。
次回は上記リンクです。